2024年06月09日
医療的畏怖、身体への超越/アートへの飛躍
先ず驚きから記せば御年80歳のなったクローネンバーグの新作を観ることができるとは思わなかった、畏怖しながら観た。いや戦慄しながら観た。
クロ―ネンバーグ映画が持ちえる映画的絆。そう戦慄の絆だ。
クローネンバーグの新作は毎回欠かさず観るように心掛けている、私にとって何よりも確定された既存の罷り通る映画史的記述よりも最重要かつ重大な作家なのである、そうであるからこそ新作登場には驚きに震えた。
新作『クライム・オブ・ザ・フューチャー』はクローネンバーグの映画作家としての黎明期に撮られた短編映画のタイトルも『クライム・オブ・ザ・フューチャー』と紛らわしい。
初期の『クライム・オブ・ザ・フューチャー』から既に都市の生活基盤の内側から融解する人間性への批判意識が鮮明に描かれている。
初期クローネンバーグの脳内の思考が新作に於いても鋭さを失わず寧ろ更なる作家性を増強へと向かい孤高の作家へ到達しつつある映画を撮ってしまった。
1970年版『クライム・オブ・ザ・フューチャー』は物語の否定の法則で映画が進行し観る側へのイマジナリーラインを拒否する。
クローネンバーグ自身が製作・監督・脚本・撮影・編集を務めたワンマン映画とされる。ヌーヴォーロマンなどの前衛文学などと比較するべき前衛性に纏われる、若い時に撮ってしまった習作的要素もあるのだが文明社会から疎外される人間性というテーマは後のクローネンバーグの諸作で主題になるのだが初期作品に於いて既に具現化していた。
カナダ出身クローネンバーグ監督は初期のグラインドハウス系B級ホラーに区分される映画作品から一貫して身体へ嗜好が見受けられる。
1975年『シーバース』なら身体への介入する寄生虫で1977年の『ラビット』では皮膚の移植手術受けたヒロインの身体に異変が生じ凶悪/凶暴化。1979年の『ブルード怒りのメタファー』では別居中に妻が怪物化している。
初期の作風での直情的煽情的に満ち彩られた色彩の暴力性の煽情的直情性、作家性を確立する以前のクローネンバーグ映画にはパンクロックの初期衝動にも似た感情が迸るようでもある。
『シーバース』『ラビット』『ブルード怒りのメタファー』の3作はコロナ禍を経た現時点の目で観ると奇妙な感覚に陥る。
なぜ陥るのか、上記3作はいづれも正体不明のウィルスを扱い、感染者は狂暴化。初期の3作品はかつてビデオレンタル店のコーナーで粗悪なホラー映画と一緒に棚に並んでいた時代があった。ジャンルを強烈に意識させられる棚で異彩を放っていたことも忘れてはならないだろう。
昨今女性たちは美容のために身体へ過度な負荷を与える事も厭わない。韓国美容は近年女性たちにとって注目の的らしい。
私が最近知った韓国の美容についての話題が少しだけ興味深いと思った、顔面に針と注射を施しデトックス効果を齎す施術。
その謳われている効果内容より、ネットで閲覧した施術の写真だ。写真を見るだけで痛さがパソコン画面から伝わる。
痛さを耐えてまで美しさを求める。クローネンバーグ的な話題だ。でも閲覧した写真は映画『ヘルレイザー』のようだったが。
激痛と苦痛の果てに理想とする桃源郷と思わしき、美顔を目指す。現実がかつてのホラー映画が描き出していた世界観へ近づいている現象が現実化している状況を我々はどのように理解するべきなのだろうか。激痛/苦痛を敢えて己にストイックに課して理想的な身体を獲得する、SMやドラッグある種の快楽原則と同一的行為とも言える。クローネンバーグの映画で言えば1996年の『クラッシュ』での車の衝突事故を意図的に引き起こすとこで生じる性的衝動の欲望を材に描出した映画でディストピア小説で有名なJ・G・バラードによる原作だった。
1988年の『戦慄の絆』以降は直接的描写による破壊と暴力は影を潜め、心理的内面的アプローチによる人間の暴力性を描くことになる、いわゆる世間的にはホラー映画の監督と見做されていたクローネンバーグが身体的即物的なホラー的描写を避け作家性を確立した時期になる。
いや『ビデオドローム』から作家性を確立したとも見做し得るがここは一先ず『戦慄の絆』で話を進める。
『戦慄の絆』は双子が一人の女性と関係を持ってしまう複雑な心理過程をまざまざと描いている。また心理的要素を強調したのがレイフ・ファインズ主演のサイコサスペンス『スパイダー』やフロイトとユングの関係性を描いた有名戯曲の映画化『危険なメソッド』の2作だ。
ホラー映画は即物的恐怖のみを描くことを主眼とする。
表層的即物で剔出されえない疎外された人間、真の主眼への拘泥が己の内に内在した澱となり外在化する、典型的ホラーからホラーの作家主義監督の映画を一面的に一括りにするとそのように指摘できる。
先述したようにB級ホラーから始発したクローネンバーグの映画作品は都市社会に潜む人間の身体の軋みが主な説話論的主題に戦略的に挑んでいる。
解剖学や先に記した美容整形の分野で人は人にメスで切り裂くことに了承している、人は人を痛めつけ傷をつけ身体改善、美容へ繋がることに何ら躊躇もぜず受容化している。
医療的知見/知識を踏まえての解剖でもフーコーの歴史系譜学的視点に立てばたちどころに生権力の問題への転じてしまう。
そもそも解剖とは、内部の構造、病変・死因などを観察すること。腑分 と解体、そしてもうひとつの意味が物事を細かく分析し、その因果関係などを明確にすること。「事件を—する」「心理—」とされている。クローネンバーグ映画も解剖学的視点と推理的視点が並行して物語が進行している。
身体への執着的かつ執拗なアプローチも解剖/推理を兼ねた作家性の表出であろう。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』は解剖の二つの意味を敷衍した説話論的主題を持つ。そして不条理性も。不条理で繋げるならば奇しくも今年はカフカ没後100年、安部公房生誕100年という不条理イヤーだ。SFとはそもそも不条理的要素が混在し発展してきた。
安部工房も初期にはSF小説も書いていた。
肉体の分析解剖と剔出し提示=表現/ボディアートを生業とするヴィゴ・モーテンセン演ずるパフォーマーは黒装束に身を包み下界の人々からの視線を逸らす。
その黒装束を纏った姿は生ある死人のよう、生きながら死を得ている人とも。
腐臭を放つ体の風貌から肉体/ボディーアートの表現者が日常では黒装束で纏われている。
映画内の画面の設定及びカット、シーンの連結部など視点、80年代前半のジョン・カーペンター監督『ニューヨーク1997』に通じていなくもない。
ヴィゴ・モーテンセンのパートナー役のレア・セドゥは元解剖医。この二人でなければボディアートの表現はできない。
二人の関係は切っても切れないクローネンバーグの過去作えは『戦慄の絆』の双子の関係性に近い。食事の時も外出時もほぼ二人。二人でなければならい身体と心が同化した2人=1人の関係だ。
二人の関係性に第三者審級が介在する、クリステン・スチュワート。
そこに臓器を生み出すヴィゴ・モーテンセン演ずるソール・テンサーは政府のスパイ活動にも従事、政府側に進化推奨派の動きを密かに政府に伝える活動。
人間の臓器、産業廃棄物を食するように企てる価値観との衝突が通奏低音となる。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』は直訳すると未来の犯罪。
全体的な演出は『裸のランチ』の低温な演出を想起する。
クローネンバーグのフィルモグラフィで『裸のランチ』は然程言及されない。ウィリアム・バロウズのファンから見れば『裸のランチ』は原作の魅力を損ねた失敗作、クローネンバーグのファンから見れば作家性の表出に成功した傑作。今でも賛否ある。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』と『裸のランチ』は重なる点が多く見落とされがちな部分ではある。
臓器への没入的視点の介在がクローネンバーグという作家を特徴づけていると言っても過言ではない。
臓器、低温、反復と不条理。近未来的の設定、それも過去作に類似点を見つけることができるけれども似ているようで似ていない質感も担保されているのがクローネンバーグ映画の全作品なのだ。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』
人類が進化することで地球資源が枯渇し他の生命体の存命も危ぶまれる状況を人類全体が作り上げている矛盾も隠喩として告発。
未來の犯罪とは、現代の社会に置き換えても未来がやせ細り今が未来社会への犯罪の温床に繋がりかねない映画は暗に仄めかしているようだ。
初期から一貫した身体性へのアプローチを食と臓器機能へ落とし込み、作家性への集大成を企てた本作はクローネンバーグの後期傑作と言わなければならない。
日本には塚本晋也がいる、塚本晋也はクローネンバーグのエピゴーネンのような存在だと私は思っていた、今年映画『ほかげ』の上映に際し行われた塚本晋也のトーク終了後のサイン会で私は直接「塚本監督の初期作にはクローネンバーグの影響が見られるのですが実際影響は受けたのでしょうか」という質問をした塚本晋也は早速回答してくれて「クローネンバーグを父にように思い映画を撮っていました」との返答。
ボディホラーの父クローネンバーグと今ではボディホラーから離れた地点で映画を撮っている塚本晋也、二人の映画監督の映画的絆を感じさせた瞬間であった。もしかしたら映画史に記されるべきことなのだと思う。
付記
本当の息子ブランドン・クローネンバーグも今年傑作『インフィニティプール』が公開された。
息子クローネンバーグについてはまたの機会に稿を改める。
クロ―ネンバーグ映画が持ちえる映画的絆。そう戦慄の絆だ。
クローネンバーグの新作は毎回欠かさず観るように心掛けている、私にとって何よりも確定された既存の罷り通る映画史的記述よりも最重要かつ重大な作家なのである、そうであるからこそ新作登場には驚きに震えた。
新作『クライム・オブ・ザ・フューチャー』はクローネンバーグの映画作家としての黎明期に撮られた短編映画のタイトルも『クライム・オブ・ザ・フューチャー』と紛らわしい。
初期の『クライム・オブ・ザ・フューチャー』から既に都市の生活基盤の内側から融解する人間性への批判意識が鮮明に描かれている。
初期クローネンバーグの脳内の思考が新作に於いても鋭さを失わず寧ろ更なる作家性を増強へと向かい孤高の作家へ到達しつつある映画を撮ってしまった。
1970年版『クライム・オブ・ザ・フューチャー』は物語の否定の法則で映画が進行し観る側へのイマジナリーラインを拒否する。
クローネンバーグ自身が製作・監督・脚本・撮影・編集を務めたワンマン映画とされる。ヌーヴォーロマンなどの前衛文学などと比較するべき前衛性に纏われる、若い時に撮ってしまった習作的要素もあるのだが文明社会から疎外される人間性というテーマは後のクローネンバーグの諸作で主題になるのだが初期作品に於いて既に具現化していた。
カナダ出身クローネンバーグ監督は初期のグラインドハウス系B級ホラーに区分される映画作品から一貫して身体へ嗜好が見受けられる。
1975年『シーバース』なら身体への介入する寄生虫で1977年の『ラビット』では皮膚の移植手術受けたヒロインの身体に異変が生じ凶悪/凶暴化。1979年の『ブルード怒りのメタファー』では別居中に妻が怪物化している。
初期の作風での直情的煽情的に満ち彩られた色彩の暴力性の煽情的直情性、作家性を確立する以前のクローネンバーグ映画にはパンクロックの初期衝動にも似た感情が迸るようでもある。
『シーバース』『ラビット』『ブルード怒りのメタファー』の3作はコロナ禍を経た現時点の目で観ると奇妙な感覚に陥る。
なぜ陥るのか、上記3作はいづれも正体不明のウィルスを扱い、感染者は狂暴化。初期の3作品はかつてビデオレンタル店のコーナーで粗悪なホラー映画と一緒に棚に並んでいた時代があった。ジャンルを強烈に意識させられる棚で異彩を放っていたことも忘れてはならないだろう。
昨今女性たちは美容のために身体へ過度な負荷を与える事も厭わない。韓国美容は近年女性たちにとって注目の的らしい。
私が最近知った韓国の美容についての話題が少しだけ興味深いと思った、顔面に針と注射を施しデトックス効果を齎す施術。
その謳われている効果内容より、ネットで閲覧した施術の写真だ。写真を見るだけで痛さがパソコン画面から伝わる。
痛さを耐えてまで美しさを求める。クローネンバーグ的な話題だ。でも閲覧した写真は映画『ヘルレイザー』のようだったが。
激痛と苦痛の果てに理想とする桃源郷と思わしき、美顔を目指す。現実がかつてのホラー映画が描き出していた世界観へ近づいている現象が現実化している状況を我々はどのように理解するべきなのだろうか。激痛/苦痛を敢えて己にストイックに課して理想的な身体を獲得する、SMやドラッグある種の快楽原則と同一的行為とも言える。クローネンバーグの映画で言えば1996年の『クラッシュ』での車の衝突事故を意図的に引き起こすとこで生じる性的衝動の欲望を材に描出した映画でディストピア小説で有名なJ・G・バラードによる原作だった。
1988年の『戦慄の絆』以降は直接的描写による破壊と暴力は影を潜め、心理的内面的アプローチによる人間の暴力性を描くことになる、いわゆる世間的にはホラー映画の監督と見做されていたクローネンバーグが身体的即物的なホラー的描写を避け作家性を確立した時期になる。
いや『ビデオドローム』から作家性を確立したとも見做し得るがここは一先ず『戦慄の絆』で話を進める。
『戦慄の絆』は双子が一人の女性と関係を持ってしまう複雑な心理過程をまざまざと描いている。また心理的要素を強調したのがレイフ・ファインズ主演のサイコサスペンス『スパイダー』やフロイトとユングの関係性を描いた有名戯曲の映画化『危険なメソッド』の2作だ。
ホラー映画は即物的恐怖のみを描くことを主眼とする。
表層的即物で剔出されえない疎外された人間、真の主眼への拘泥が己の内に内在した澱となり外在化する、典型的ホラーからホラーの作家主義監督の映画を一面的に一括りにするとそのように指摘できる。
先述したようにB級ホラーから始発したクローネンバーグの映画作品は都市社会に潜む人間の身体の軋みが主な説話論的主題に戦略的に挑んでいる。
解剖学や先に記した美容整形の分野で人は人にメスで切り裂くことに了承している、人は人を痛めつけ傷をつけ身体改善、美容へ繋がることに何ら躊躇もぜず受容化している。
医療的知見/知識を踏まえての解剖でもフーコーの歴史系譜学的視点に立てばたちどころに生権力の問題への転じてしまう。
そもそも解剖とは、内部の構造、病変・死因などを観察すること。腑分 と解体、そしてもうひとつの意味が物事を細かく分析し、その因果関係などを明確にすること。「事件を—する」「心理—」とされている。クローネンバーグ映画も解剖学的視点と推理的視点が並行して物語が進行している。
身体への執着的かつ執拗なアプローチも解剖/推理を兼ねた作家性の表出であろう。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』は解剖の二つの意味を敷衍した説話論的主題を持つ。そして不条理性も。不条理で繋げるならば奇しくも今年はカフカ没後100年、安部公房生誕100年という不条理イヤーだ。SFとはそもそも不条理的要素が混在し発展してきた。
安部工房も初期にはSF小説も書いていた。
肉体の分析解剖と剔出し提示=表現/ボディアートを生業とするヴィゴ・モーテンセン演ずるパフォーマーは黒装束に身を包み下界の人々からの視線を逸らす。
その黒装束を纏った姿は生ある死人のよう、生きながら死を得ている人とも。
腐臭を放つ体の風貌から肉体/ボディーアートの表現者が日常では黒装束で纏われている。
映画内の画面の設定及びカット、シーンの連結部など視点、80年代前半のジョン・カーペンター監督『ニューヨーク1997』に通じていなくもない。
ヴィゴ・モーテンセンのパートナー役のレア・セドゥは元解剖医。この二人でなければボディアートの表現はできない。
二人の関係は切っても切れないクローネンバーグの過去作えは『戦慄の絆』の双子の関係性に近い。食事の時も外出時もほぼ二人。二人でなければならい身体と心が同化した2人=1人の関係だ。
二人の関係性に第三者審級が介在する、クリステン・スチュワート。
そこに臓器を生み出すヴィゴ・モーテンセン演ずるソール・テンサーは政府のスパイ活動にも従事、政府側に進化推奨派の動きを密かに政府に伝える活動。
人間の臓器、産業廃棄物を食するように企てる価値観との衝突が通奏低音となる。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』は直訳すると未来の犯罪。
全体的な演出は『裸のランチ』の低温な演出を想起する。
クローネンバーグのフィルモグラフィで『裸のランチ』は然程言及されない。ウィリアム・バロウズのファンから見れば『裸のランチ』は原作の魅力を損ねた失敗作、クローネンバーグのファンから見れば作家性の表出に成功した傑作。今でも賛否ある。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』と『裸のランチ』は重なる点が多く見落とされがちな部分ではある。
臓器への没入的視点の介在がクローネンバーグという作家を特徴づけていると言っても過言ではない。
臓器、低温、反復と不条理。近未来的の設定、それも過去作に類似点を見つけることができるけれども似ているようで似ていない質感も担保されているのがクローネンバーグ映画の全作品なのだ。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー』
人類が進化することで地球資源が枯渇し他の生命体の存命も危ぶまれる状況を人類全体が作り上げている矛盾も隠喩として告発。
未來の犯罪とは、現代の社会に置き換えても未来がやせ細り今が未来社会への犯罪の温床に繋がりかねない映画は暗に仄めかしているようだ。
初期から一貫した身体性へのアプローチを食と臓器機能へ落とし込み、作家性への集大成を企てた本作はクローネンバーグの後期傑作と言わなければならない。
日本には塚本晋也がいる、塚本晋也はクローネンバーグのエピゴーネンのような存在だと私は思っていた、今年映画『ほかげ』の上映に際し行われた塚本晋也のトーク終了後のサイン会で私は直接「塚本監督の初期作にはクローネンバーグの影響が見られるのですが実際影響は受けたのでしょうか」という質問をした塚本晋也は早速回答してくれて「クローネンバーグを父にように思い映画を撮っていました」との返答。
ボディホラーの父クローネンバーグと今ではボディホラーから離れた地点で映画を撮っている塚本晋也、二人の映画監督の映画的絆を感じさせた瞬間であった。もしかしたら映画史に記されるべきことなのだと思う。
付記
本当の息子ブランドン・クローネンバーグも今年傑作『インフィニティプール』が公開された。
息子クローネンバーグについてはまたの機会に稿を改める。
Posted by NaohikoIsikawa at
02:50
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2023年11月25日
密室、過剰なる情念発露
2023年の現在の統一ドイツが東西に分断されていたころ西と東にドイツは分断されていた時代は東西冷戦の時代だった。西ドイツと東ドイツ同じ民族でありながら二つの国家に分断。
冷戦は識者に言わせると第三次世界大戦だったとする見解もある。その西ドイツに日本の劇作家で詩人/エッセイスト/映画監督寺山修司と同等かそれ以上に内に宿す尋常ではないほどの創作意欲を爆発させた映画監督がいる、その名もファスビンダー。
60年代に監督デビュー以来亡くなる82年まで映画36本を残し37歳で逝った鬼才だ。ファスビンダーの映画作品は近年評価を高め作家主義の映画監督の映画である以上に当時の西ドイツの文化/社会の情況とその情況へ生を呻くかのように人々を描くリアルさで資料的にも価値ある作品群だ。尚且つファスビンダー映画は現在においても鮮度の命脈は永久革命的とすら言いきれるものなのだ。
蛇足として記すことが許されるならばメルケル首相は東ドイツ出身である。90年代英米圏でもヒットを放ったインダストリアルロックのラムシュタインも東ドイツ出身。東ドイツは統一後経済的には失業や社会問題などの課題が残りその不満がネオナチへ。80年代の西ドイツでくすぶっていたネオナチ問題が冷戦後再び噴き出す。こうしたドイツの民族問題が現在のイスラエル/パレスチナ問題に於いてイスラエル支持を鮮明にしなければならない立場も見えてくる。
今年2023年日本では寺山修司の生誕祭が企画されていると聞く、寺山修司崇拝/信者/支持者たちはファスビンダーに対する見識を残念ながら持ち合わせていない、それどころかファスビンダーの足跡を知る表層的素振りすら見せようとはしない。演劇サイドから見た寺山修司像は酷く偏った寺山修司像で寺山修司作品を接し解説している。そのような演劇人は寺山修司の映画作品をどうのうように評価しているのか、演劇的空間と映画的空化の質的差異と言われればそれまでのこと。
演劇人は映画を観ていない、私は演劇人の映画観賞を快く思わない、なぜなら彼ら演劇人は映画の画面を観れない、いや注視できない。かわりに別の何かを観ている。そう話を進めていくと脱線しUSインディペンデント映画の父ジョン・カサヴェテス監督の名作『オープニングナイト』が描いた映画内部に於ける演劇空間の問題/憑依する身体としての演者=役者の走査線が表出。シネフィルの映画観賞スタイルと演劇人の映画観賞スタイルに差異があるのは当然だとしても演じる行為で自己の演技を行った延長線上で理解する身体的フレーム。映画を過去に観てきた蓄積からの参照する視覚的フレームで映画の理解の仕方への差異。
演劇を観賞することと映画を観賞することの質的差異と態度は明確な違いを意識されていないのではないか、舞台を見る客の視点は演者へ向けられるが演じる側の目線は遠く舞台の演出空間のようなものへの視点を凝視。
寺山修司の話題は脇に置くとして西ドイツのニュージャーマンシネマの旗手とも言われたファスビンダーの映画のリメイクを試みる事自体が無謀な行為でありファスビンダー映画への影響を公言する作家たちは存在していてもリメイク作数は極端に少ない。
数が少ない、それはファスビンダー映画へのアプローチが困難を極めるからだろう。少しだけ脇へ置いたはずの寺山修司の映画へ言及が許されるならば寺山の映画『トマト皇帝』のタイトルをアルバムタイトルに拝借した90年代UKポストロックの雄ストレオラヴ。
浮遊した感覚のある音作り、曲によってはフランス語の歌詞で歌唱、諧謔的シニカルでステレオラブは寺山修司的なバンドとも云える。
『エンペラー・トマトケッチャプ』と出されたアルバムは90年代のオルタナ世代が寺山修司を認知させた最適な入口だったと今にして思う。
ステレオラヴと本作『苦い涙』はけして遠くはない、寧ろ近しい感性だ。ファスビンダーの映画のリメイク作の極端な数の少なさはファスビンダー映画の本数と反比例なのは皮肉な現状だと言わざるを得ない。
現代フランス映画の名匠フランソワ・オゾンがファスビンダー映画のリメイク作として挑んだ『苦い涙』は近年影を潜めていたオゾンのキッチュさが復調している。オゾンはデビュー当時からファスビンダーへの影響を公言しており監督第6作目『焼け石に水』はファスビンダーが19歳のときに書いた未発表の戯曲の映画化作品。なのでオゾンにとっては二度目のファスビンダー作品に挑むことになった。
映画冒頭から仰々しい始まりから既にキッチュさが胚胎している。屋敷を俯瞰ショットで見せ屋敷内をカメラが凝視した先にズーム。
室内劇のはじまりの幕を開けるのにふさわしすぎることこの上ない。メロドラマ性とサスペンス性はヒッチコックとダクラス・サークの要素を上手く映画のなかに取り入れている。ファスビンダー映画の味を損ねない形で。
フランソワ・オゾンのゼロ年代の名作『まぼろし』『8人の女たち』『スィミングプール』の3作で見せたメロドラマ性、キャッチュ性、妖艶性を新作『苦い涙』で全て詰め込んだかのうような内容と濃度。初期オゾンに見られた全て要素をオゾン自身が敬愛するファスビンダー映画へのリメイク作で原点回帰とも受け取れる作風へ傾斜した。初期からオゾン映画を観ている側にとっては原点回帰と受け取られるだろう、初期から知る私には喜ばしい作風だ。
しかし本作は初期作への回帰的な要素に留まるだけではない点が、現代の名匠オゾン所以なのである、オリジナル作への熱烈なるリスペクトを踏まえながら微妙にオリジナルを改変。オリジナルでの設定では
映画や舞台表現での色彩は舞台上の演出を支える重要な要素。
60年代のウォーカー・ブラザーズの名曲「イン・マイ・ルーム」が効果的に流れ映画の舞台となった映画監督ピーターの部屋に残響し余韻を残しつつも映画全体の意味を包含している曲を選曲したオゾンの意図も見事。
外側から窓から佇む姿の監督ピーターをを捉えたショットの多用が心理的な寂寞を表象。
一人孤独に傷への埋め合わせを図るかのようにタバコを吸い酒を呷る。孤独とは傷付いた身体へ更なる負荷を与え続けなければならないと自問しているピーター。孤独の埋め合わせのような執事の存在でまるで飼い猫/犬のようにご主人様に忠実な振舞いを徹底するのだが、後半にその徹底を貫き通すが故の反転を引き起こす。
ファスビンダー映画を偏愛するオゾンのことだから『苦い涙』製作に辺りファスビンダー映画を全て観直したのだろう。映画全体に表象不可能なファスビンダーの影が纏わりついている。
イザベル・アジャー二が劇中で歌を披露する歌もファスビンダー映画所縁のものである『ファスビンダーのケレル』でジャンル・モローがキャバレーで歌うオスカー・ワイルドの詩を元にした「人は愛するものを殺す」という曲なのだ。
ファスビンダー所縁の女優ハンナ・シグラの出演も『苦い涙』のオゾンのファスビンダー愛を代理=表象。
愛に狂うことは即ち己自身の生活圏が盲目的牢獄へと変貌する悪しき様のことの振舞いなのだと吐露している画面ではないか。
映画を観るとは何か?
映画を作ることとは?
ファスビンダーは映画館に通うことを通じて映画の技術を全て体得した恐るべき天才なのだ。
オゾンは自問しながら『苦い涙』を撮ったのかもしれないほどに映画製作の構造への疑念と受け取ることができるシーンがいくつかある。
映画を観る人間はやはり映画を観る、映画を撮ることになる、撮ることに於いても観てきた映画を考える。その考えの先にあるものが見果てぬ夢としての映画なのだろう。
映画を観続けてしまう人々に『苦い涙』は届けられる。最果ての映画として。
趣味は映画と公言していながら観る映画がハリウッド映画のみという悲惨なセンスの持ち主の人々が本作『苦い涙』に向き合うことを切に願いたいものだ。
70年代の西ドイツはテロが吹き荒れ鉛の季節とも呼称される凄惨で惨たらしい憎悪が駆け巡る時代でもあった、現代でも報復的状況が際限のない殺し合いへ。現代の最悪な紛争/テロを考え直すためにも70年の西ドイツの鉛の時代は考察するべき点を現代に投げかけている。
『苦い涙』の設定の年はミュンヘンオリンピックでのテロ事件が起きた。ドイツ赤軍は70年代後半に攻勢をしかけるテロを起こす。
この時期の事件の流れ全体をドイツの秋と呼ばれる。
映画のタイトルの苦い涙、ドイツ赤軍によるテロ攻撃の攻撃する側と攻撃を受けた側への鎮魂が込められているようにも思える。
参考文献
映画『苦い涙』劇場版パンフレット
渋谷哲也 平沢剛編著 ファスビンダー 現代思潮社 2005年
冷戦は識者に言わせると第三次世界大戦だったとする見解もある。その西ドイツに日本の劇作家で詩人/エッセイスト/映画監督寺山修司と同等かそれ以上に内に宿す尋常ではないほどの創作意欲を爆発させた映画監督がいる、その名もファスビンダー。
60年代に監督デビュー以来亡くなる82年まで映画36本を残し37歳で逝った鬼才だ。ファスビンダーの映画作品は近年評価を高め作家主義の映画監督の映画である以上に当時の西ドイツの文化/社会の情況とその情況へ生を呻くかのように人々を描くリアルさで資料的にも価値ある作品群だ。尚且つファスビンダー映画は現在においても鮮度の命脈は永久革命的とすら言いきれるものなのだ。
蛇足として記すことが許されるならばメルケル首相は東ドイツ出身である。90年代英米圏でもヒットを放ったインダストリアルロックのラムシュタインも東ドイツ出身。東ドイツは統一後経済的には失業や社会問題などの課題が残りその不満がネオナチへ。80年代の西ドイツでくすぶっていたネオナチ問題が冷戦後再び噴き出す。こうしたドイツの民族問題が現在のイスラエル/パレスチナ問題に於いてイスラエル支持を鮮明にしなければならない立場も見えてくる。
今年2023年日本では寺山修司の生誕祭が企画されていると聞く、寺山修司崇拝/信者/支持者たちはファスビンダーに対する見識を残念ながら持ち合わせていない、それどころかファスビンダーの足跡を知る表層的素振りすら見せようとはしない。演劇サイドから見た寺山修司像は酷く偏った寺山修司像で寺山修司作品を接し解説している。そのような演劇人は寺山修司の映画作品をどうのうように評価しているのか、演劇的空間と映画的空化の質的差異と言われればそれまでのこと。
演劇人は映画を観ていない、私は演劇人の映画観賞を快く思わない、なぜなら彼ら演劇人は映画の画面を観れない、いや注視できない。かわりに別の何かを観ている。そう話を進めていくと脱線しUSインディペンデント映画の父ジョン・カサヴェテス監督の名作『オープニングナイト』が描いた映画内部に於ける演劇空間の問題/憑依する身体としての演者=役者の走査線が表出。シネフィルの映画観賞スタイルと演劇人の映画観賞スタイルに差異があるのは当然だとしても演じる行為で自己の演技を行った延長線上で理解する身体的フレーム。映画を過去に観てきた蓄積からの参照する視覚的フレームで映画の理解の仕方への差異。
演劇を観賞することと映画を観賞することの質的差異と態度は明確な違いを意識されていないのではないか、舞台を見る客の視点は演者へ向けられるが演じる側の目線は遠く舞台の演出空間のようなものへの視点を凝視。
寺山修司の話題は脇に置くとして西ドイツのニュージャーマンシネマの旗手とも言われたファスビンダーの映画のリメイクを試みる事自体が無謀な行為でありファスビンダー映画への影響を公言する作家たちは存在していてもリメイク作数は極端に少ない。
数が少ない、それはファスビンダー映画へのアプローチが困難を極めるからだろう。少しだけ脇へ置いたはずの寺山修司の映画へ言及が許されるならば寺山の映画『トマト皇帝』のタイトルをアルバムタイトルに拝借した90年代UKポストロックの雄ストレオラヴ。
浮遊した感覚のある音作り、曲によってはフランス語の歌詞で歌唱、諧謔的シニカルでステレオラブは寺山修司的なバンドとも云える。
『エンペラー・トマトケッチャプ』と出されたアルバムは90年代のオルタナ世代が寺山修司を認知させた最適な入口だったと今にして思う。
ステレオラヴと本作『苦い涙』はけして遠くはない、寧ろ近しい感性だ。ファスビンダーの映画のリメイク作の極端な数の少なさはファスビンダー映画の本数と反比例なのは皮肉な現状だと言わざるを得ない。
現代フランス映画の名匠フランソワ・オゾンがファスビンダー映画のリメイク作として挑んだ『苦い涙』は近年影を潜めていたオゾンのキッチュさが復調している。オゾンはデビュー当時からファスビンダーへの影響を公言しており監督第6作目『焼け石に水』はファスビンダーが19歳のときに書いた未発表の戯曲の映画化作品。なのでオゾンにとっては二度目のファスビンダー作品に挑むことになった。
映画冒頭から仰々しい始まりから既にキッチュさが胚胎している。屋敷を俯瞰ショットで見せ屋敷内をカメラが凝視した先にズーム。
室内劇のはじまりの幕を開けるのにふさわしすぎることこの上ない。メロドラマ性とサスペンス性はヒッチコックとダクラス・サークの要素を上手く映画のなかに取り入れている。ファスビンダー映画の味を損ねない形で。
フランソワ・オゾンのゼロ年代の名作『まぼろし』『8人の女たち』『スィミングプール』の3作で見せたメロドラマ性、キャッチュ性、妖艶性を新作『苦い涙』で全て詰め込んだかのうような内容と濃度。初期オゾンに見られた全て要素をオゾン自身が敬愛するファスビンダー映画へのリメイク作で原点回帰とも受け取れる作風へ傾斜した。初期からオゾン映画を観ている側にとっては原点回帰と受け取られるだろう、初期から知る私には喜ばしい作風だ。
しかし本作は初期作への回帰的な要素に留まるだけではない点が、現代の名匠オゾン所以なのである、オリジナル作への熱烈なるリスペクトを踏まえながら微妙にオリジナルを改変。オリジナルでの設定では
映画や舞台表現での色彩は舞台上の演出を支える重要な要素。
60年代のウォーカー・ブラザーズの名曲「イン・マイ・ルーム」が効果的に流れ映画の舞台となった映画監督ピーターの部屋に残響し余韻を残しつつも映画全体の意味を包含している曲を選曲したオゾンの意図も見事。
外側から窓から佇む姿の監督ピーターをを捉えたショットの多用が心理的な寂寞を表象。
一人孤独に傷への埋め合わせを図るかのようにタバコを吸い酒を呷る。孤独とは傷付いた身体へ更なる負荷を与え続けなければならないと自問しているピーター。孤独の埋め合わせのような執事の存在でまるで飼い猫/犬のようにご主人様に忠実な振舞いを徹底するのだが、後半にその徹底を貫き通すが故の反転を引き起こす。
ファスビンダー映画を偏愛するオゾンのことだから『苦い涙』製作に辺りファスビンダー映画を全て観直したのだろう。映画全体に表象不可能なファスビンダーの影が纏わりついている。
イザベル・アジャー二が劇中で歌を披露する歌もファスビンダー映画所縁のものである『ファスビンダーのケレル』でジャンル・モローがキャバレーで歌うオスカー・ワイルドの詩を元にした「人は愛するものを殺す」という曲なのだ。
ファスビンダー所縁の女優ハンナ・シグラの出演も『苦い涙』のオゾンのファスビンダー愛を代理=表象。
愛に狂うことは即ち己自身の生活圏が盲目的牢獄へと変貌する悪しき様のことの振舞いなのだと吐露している画面ではないか。
映画を観るとは何か?
映画を作ることとは?
ファスビンダーは映画館に通うことを通じて映画の技術を全て体得した恐るべき天才なのだ。
オゾンは自問しながら『苦い涙』を撮ったのかもしれないほどに映画製作の構造への疑念と受け取ることができるシーンがいくつかある。
映画を観る人間はやはり映画を観る、映画を撮ることになる、撮ることに於いても観てきた映画を考える。その考えの先にあるものが見果てぬ夢としての映画なのだろう。
映画を観続けてしまう人々に『苦い涙』は届けられる。最果ての映画として。
趣味は映画と公言していながら観る映画がハリウッド映画のみという悲惨なセンスの持ち主の人々が本作『苦い涙』に向き合うことを切に願いたいものだ。
70年代の西ドイツはテロが吹き荒れ鉛の季節とも呼称される凄惨で惨たらしい憎悪が駆け巡る時代でもあった、現代でも報復的状況が際限のない殺し合いへ。現代の最悪な紛争/テロを考え直すためにも70年の西ドイツの鉛の時代は考察するべき点を現代に投げかけている。
『苦い涙』の設定の年はミュンヘンオリンピックでのテロ事件が起きた。ドイツ赤軍は70年代後半に攻勢をしかけるテロを起こす。
この時期の事件の流れ全体をドイツの秋と呼ばれる。
映画のタイトルの苦い涙、ドイツ赤軍によるテロ攻撃の攻撃する側と攻撃を受けた側への鎮魂が込められているようにも思える。
参考文献
映画『苦い涙』劇場版パンフレット
渋谷哲也 平沢剛編著 ファスビンダー 現代思潮社 2005年
2023年07月11日
ピエール・エテックスという名の忘却された作家について
映画史にその名を刻まれた映画作家たちの映画作品は幾度となく再上映の機会が与えられている。再上映/リバイバルでかつては不当に評価された映画が価値を見直され名作の称号を与えられる側面もある。本ブログで以前書いたウィリアム・フリードキン監督『恐怖の報酬』もそうした映画だ。
再映の意味ここで一度確認しておくと公開された映画の期間終了時から時間を置いて再度映画を上映すること。
またリバイバルはかつての作品を復刻するという意味がある。リバイバル上映となると時間を掛けた復刻作業に基づいて行われること。
90年代以降の日本のミニシアター文化でリバイバル上映され再評価された映画は無数に存在する。
それら作品は権利関係がスムーズありで何ら粗雑で煩雑な権利関係ではないことがリバイバル上映にこぎ着けたと言える。
リバイバル上映/再映を通して過去の製作され公開当時も一定に評価がなされた映画作品がある一方で不当な評価を与えられた映画作品にも光を当てる意味も込められている。
ピエール・エテックスの過去作のリバイバル上映/再映は今現在流通している日本国内でのフランス映画史の基礎的前提への修正される事案だろう。今後日本国内で書き記さるフランス映画史の書籍類でピエール・エテックスへの言及を回避することはできない。
DVD化は悠に及ばず、ソフト化されて普及されることにより映画へのアクセスが容易になり作家主義/auteurismeの映画で長らく観る機会がなかった、特に沖縄のような場所ではソフト化されることでようやく観る機会が訪れる映画は無数に存在する。
映画を意識的に観ることは環境や社会状況、インフラ設備などの社会的な枠組みが揃って映画が観える、意識する先に映画館がなければばらないし自宅に映画を視聴する設備を整えなければ映画は観ることはできない。
著作権などの権利関係が複雑極まりないとソフト化も再上映の機会は訪れない。
上映と権利の問題は留保し後半へ本論ピエール・エテックスについて話し(文それはエッセイの如きもの)進める。
私はピエール・エテックスという名の監督を知らずにいた、だがピエール・エテックスは役者として作家主義の映画監督の諸作に出演しており意識しないで彼の演技を観ていたことになる。ピエール・エテックスのフィルモグラフィを調べているうちにあのフランス映画史の作家との師弟関係に行き当たる、監督の名はジャック・タチ。
名作『ぼくの伯父さん』でピエール・エテックスは助監督で様々な雑用係も担わされたらしい。
巷間流布している『ぼくの伯父さん』のビジュアルイメージの大半はピエール・エテックスが手掛けたポスターによるところが大きい。
映画作家ジャック・タチ=『ぼくの伯父さん』という図式は成立しない。残念ながら沖縄でのピエール・エテックスのリバイバル上映然程客の入りは寂しいものだった。ジャック・タチが好きもしくはジャック・タチ映画のポスターを掲示する雰囲気重視の飲食店は那覇市内にもいくつか存在する。
それが客の動員に結びつかずシネフィル文化の非在の場所=沖縄という図式は成り立つ。シネフィル的価値観が必ずしも良いとは些かも思わない、しかし映画を構造的把握する場合にシネフィル的な知識を有するものの解説/コーディネートは必要だ。
那覇で唯一のミニシアターが存在しながらも映画を観る文化の不在。そして映画を語ることの不在/非在。
観ることと語ることの非在/不在は批評の不在にも繋がろう。不在への埋め合わせの為にこのブログは存在している。
ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』とピエール・エテックスとの関係を手短に記すならば、実質的師弟関係は僅か4年間だけだった1954年から1958年まで。タチよりも小手先起用なエテックスはその才を映画『ぼくの伯父さん』で最大限に活用。
どのようにして師弟関係が始まったのかと言えばエテックスが『ぼくの伯父さんの休暇』を観て感激しタチの事務所に手紙を投函、これを読んだタチはいたく感銘を受けた。ユロ氏の人物造形もエテックスによるパリの町行く人々の画いたスケッチブックを元に膨らませた。エテックスの絵が巧くなければユロ氏も映画史に刻まれなかったかもしれない、それほど大きくピエール・エテックスは『ぼくの伯父さん』に貢献を果たしということ。
タチだけでは映画『ぼくの伯父さん』は製作できなかった。製作できたとしても別の形の映画になった可能性は高い。
高い貢献を果たしているエテックスの存在はもっと語られて然るべきなのだ。
リバイバル上映/再映されたピエール・エテックスの映画4作品を手短に述べる。
まずは映画『恋する男』は監督デビュー作、それまで短編映画を撮っていたエテックスにとって実質的長編デビュー作である。
バスター・キートン風な立ち振る舞いな監督/主演を兼ねたピエール・エテックスは自身の映画にあって映画に非ずような面持ちで無目的に動き映画内に於いて映画の空間に異様な出で立ちで観客の前を飄々と横切るかのような演技。ゴダールも自作に出演する演技はバスター・キートンを思わせるものがある、もしやピエール・エテックスへのささやかなリスペクトも兼ねているのかもしれない。
アニエス・ヴァルダ監督『5時から7時までのクレオ』でカメオを出演したゴダールはまさしくバスター・キートン的演技を披露、ゴダール映画の根底にはバスター・キートンなのだろうか、『恋する男』のエテックスと似てなくもない。お互いを認識していたのは間違いなさそう。現実ゴダールはエテックスの『YOYO』をカイエ・デュ・シネマ誌での1965年の年間ベスト10に選出している、『YOYO』は前作『恋する男』ほどのヒット作にはならなかったが批評的には成功し喜劇映画史的言及へのアプローチもありエテックス自身が喜劇映画の作家としての自覚を持って撮影に挑んだと伺わせる視点。
サーカス小屋を軸にした映画は後のローリングストーンズのライブドキュメンタリー『ロックンロールサーカス』にも繋がる。
『ロックンロールサーカス』で冒頭パフォーマンスを披露する今やストーンズファンから忘却されつつあるあのジェスロタルだ。
その彼らジェスロタルのボーカル/フルートのイアン・アンダーソンの振舞いがなんとも喜劇だったりする。
『健康でさえあれば』はやはり敬愛するバスター・キートンとジャン・ルノワールへのオマージュを軸にしてオムニバス形式で構成された映画。
エテックスはタチよりもシネフィル的感性が強く出た作家でもある、その証左に『YOYO』はヌーヴェルヴァーグの作家たちに勝るとも劣らない引用の満ちている。ヌーヴェルヴァーグの作家たちは引用を行うことで映画史的な文脈の俎上に自作への導き出し、図らずもかつて不当に評価された映画作品への言及/引用を通して自己を確立させる為に必要な企てだった。エテックスの方法論はヌーヴェルヴァーグの作家たちと随分と異にする、過去作への愛の表明であると同時にシニカルな意志が見え隠れしたヌーヴェルヴァーグの作家たちとは違い、エテックスの場合遊戯的な楽観的なものだ。エテックス自身はその後映画監督から遠ざかり、俳優業の傍らで道化師として晩年まで活動を継続していた。
『大恋愛』は色彩の濃度が濃く、赤の基調とした画面構成美でイラストレーターでもあるエテックスの色彩感覚が本作で全面的に表出されたのではないだろうか。エテックスは残念ながら『大恋愛』以降ドキュメンタリー映画一本を撮り映画監督業は事実上の引退となる。
神経質で引き攣ったような笑いも多分に含まれている、ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』や『ブルジョワジーの秘かなる愉しみ』での弛緩と緊迫が綯い交ぜになった資本家/ブルジョワジーのグロテスクな醜態を黒い笑いを踏まえて不条理劇として作り上げた、特に後期ブニュエル映画にとって欠かすことのできない存在の脚本家ジャン=クロード・カリエールはジャック・タチの『ぼくの伯父さん』のノベライズ担当、エテックスとはタチとの仕事で知り合い一緒に映画製作を行うことになる、それが『恋する男』となって結実しカリエールとエテックスの映画人生が始まる。
カリエールはその後様々な映画作家の名作の脚本を担いフランス映画界になくてはならない存在に上り詰める。
大島渚のオールフランスロケの『マックス・モン・アムール』でカリエールは脚本を担当、出演者にエテックス。
映画の因果応酬、『マックス・モン・アムール』もカリエールが脚本担当した『ブルジョワジーの秘かなる愉しみ』にも類似性が指摘できうる外観と内容どこまで意識したかは不明。エテックスの出演とカリエール脚本、意気投合した二人が他の映画監督作で久方ぶりの皆合、エテックス効果か定かではないが不条理なモードが徐々に映画全体へ拡張していく、幾分あいまいな境界線。
『マックス・モン・アムール』へ部分的オマージュを捧げたのがレオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』だ。
映画全体、ピエール・エテックス映画的要素が観られなくはない気もする。不条理連鎖劇でブニュエル色濃厚だけど。
忘れつつあった映画作家の名作が墓場から生還を果たす、大げさな物言いではない、一歩間違えれば永久にエテックスの映画が観られなくなった可能性があった。
こうしてピエール・エテックスの代表作が観賞できる環境が整った、悲喜劇とシニカルな身体表現を身上とした映画でのエテックスのパフォーマンスは後のMrビーンの登場すらも用意していたかのよう。
今後日本でピエール・エテックスの研究が進むことを願う。
参考文献
ピエール・エテックス レトロスペクティブ・パンフレット
再映の意味ここで一度確認しておくと公開された映画の期間終了時から時間を置いて再度映画を上映すること。
またリバイバルはかつての作品を復刻するという意味がある。リバイバル上映となると時間を掛けた復刻作業に基づいて行われること。
90年代以降の日本のミニシアター文化でリバイバル上映され再評価された映画は無数に存在する。
それら作品は権利関係がスムーズありで何ら粗雑で煩雑な権利関係ではないことがリバイバル上映にこぎ着けたと言える。
リバイバル上映/再映を通して過去の製作され公開当時も一定に評価がなされた映画作品がある一方で不当な評価を与えられた映画作品にも光を当てる意味も込められている。
ピエール・エテックスの過去作のリバイバル上映/再映は今現在流通している日本国内でのフランス映画史の基礎的前提への修正される事案だろう。今後日本国内で書き記さるフランス映画史の書籍類でピエール・エテックスへの言及を回避することはできない。
DVD化は悠に及ばず、ソフト化されて普及されることにより映画へのアクセスが容易になり作家主義/auteurismeの映画で長らく観る機会がなかった、特に沖縄のような場所ではソフト化されることでようやく観る機会が訪れる映画は無数に存在する。
映画を意識的に観ることは環境や社会状況、インフラ設備などの社会的な枠組みが揃って映画が観える、意識する先に映画館がなければばらないし自宅に映画を視聴する設備を整えなければ映画は観ることはできない。
著作権などの権利関係が複雑極まりないとソフト化も再上映の機会は訪れない。
上映と権利の問題は留保し後半へ本論ピエール・エテックスについて話し(文それはエッセイの如きもの)進める。
私はピエール・エテックスという名の監督を知らずにいた、だがピエール・エテックスは役者として作家主義の映画監督の諸作に出演しており意識しないで彼の演技を観ていたことになる。ピエール・エテックスのフィルモグラフィを調べているうちにあのフランス映画史の作家との師弟関係に行き当たる、監督の名はジャック・タチ。
名作『ぼくの伯父さん』でピエール・エテックスは助監督で様々な雑用係も担わされたらしい。
巷間流布している『ぼくの伯父さん』のビジュアルイメージの大半はピエール・エテックスが手掛けたポスターによるところが大きい。
映画作家ジャック・タチ=『ぼくの伯父さん』という図式は成立しない。残念ながら沖縄でのピエール・エテックスのリバイバル上映然程客の入りは寂しいものだった。ジャック・タチが好きもしくはジャック・タチ映画のポスターを掲示する雰囲気重視の飲食店は那覇市内にもいくつか存在する。
それが客の動員に結びつかずシネフィル文化の非在の場所=沖縄という図式は成り立つ。シネフィル的価値観が必ずしも良いとは些かも思わない、しかし映画を構造的把握する場合にシネフィル的な知識を有するものの解説/コーディネートは必要だ。
那覇で唯一のミニシアターが存在しながらも映画を観る文化の不在。そして映画を語ることの不在/非在。
観ることと語ることの非在/不在は批評の不在にも繋がろう。不在への埋め合わせの為にこのブログは存在している。
ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』とピエール・エテックスとの関係を手短に記すならば、実質的師弟関係は僅か4年間だけだった1954年から1958年まで。タチよりも小手先起用なエテックスはその才を映画『ぼくの伯父さん』で最大限に活用。
どのようにして師弟関係が始まったのかと言えばエテックスが『ぼくの伯父さんの休暇』を観て感激しタチの事務所に手紙を投函、これを読んだタチはいたく感銘を受けた。ユロ氏の人物造形もエテックスによるパリの町行く人々の画いたスケッチブックを元に膨らませた。エテックスの絵が巧くなければユロ氏も映画史に刻まれなかったかもしれない、それほど大きくピエール・エテックスは『ぼくの伯父さん』に貢献を果たしということ。
タチだけでは映画『ぼくの伯父さん』は製作できなかった。製作できたとしても別の形の映画になった可能性は高い。
高い貢献を果たしているエテックスの存在はもっと語られて然るべきなのだ。
リバイバル上映/再映されたピエール・エテックスの映画4作品を手短に述べる。
まずは映画『恋する男』は監督デビュー作、それまで短編映画を撮っていたエテックスにとって実質的長編デビュー作である。
バスター・キートン風な立ち振る舞いな監督/主演を兼ねたピエール・エテックスは自身の映画にあって映画に非ずような面持ちで無目的に動き映画内に於いて映画の空間に異様な出で立ちで観客の前を飄々と横切るかのような演技。ゴダールも自作に出演する演技はバスター・キートンを思わせるものがある、もしやピエール・エテックスへのささやかなリスペクトも兼ねているのかもしれない。
アニエス・ヴァルダ監督『5時から7時までのクレオ』でカメオを出演したゴダールはまさしくバスター・キートン的演技を披露、ゴダール映画の根底にはバスター・キートンなのだろうか、『恋する男』のエテックスと似てなくもない。お互いを認識していたのは間違いなさそう。現実ゴダールはエテックスの『YOYO』をカイエ・デュ・シネマ誌での1965年の年間ベスト10に選出している、『YOYO』は前作『恋する男』ほどのヒット作にはならなかったが批評的には成功し喜劇映画史的言及へのアプローチもありエテックス自身が喜劇映画の作家としての自覚を持って撮影に挑んだと伺わせる視点。
サーカス小屋を軸にした映画は後のローリングストーンズのライブドキュメンタリー『ロックンロールサーカス』にも繋がる。
『ロックンロールサーカス』で冒頭パフォーマンスを披露する今やストーンズファンから忘却されつつあるあのジェスロタルだ。
その彼らジェスロタルのボーカル/フルートのイアン・アンダーソンの振舞いがなんとも喜劇だったりする。
『健康でさえあれば』はやはり敬愛するバスター・キートンとジャン・ルノワールへのオマージュを軸にしてオムニバス形式で構成された映画。
エテックスはタチよりもシネフィル的感性が強く出た作家でもある、その証左に『YOYO』はヌーヴェルヴァーグの作家たちに勝るとも劣らない引用の満ちている。ヌーヴェルヴァーグの作家たちは引用を行うことで映画史的な文脈の俎上に自作への導き出し、図らずもかつて不当に評価された映画作品への言及/引用を通して自己を確立させる為に必要な企てだった。エテックスの方法論はヌーヴェルヴァーグの作家たちと随分と異にする、過去作への愛の表明であると同時にシニカルな意志が見え隠れしたヌーヴェルヴァーグの作家たちとは違い、エテックスの場合遊戯的な楽観的なものだ。エテックス自身はその後映画監督から遠ざかり、俳優業の傍らで道化師として晩年まで活動を継続していた。
『大恋愛』は色彩の濃度が濃く、赤の基調とした画面構成美でイラストレーターでもあるエテックスの色彩感覚が本作で全面的に表出されたのではないだろうか。エテックスは残念ながら『大恋愛』以降ドキュメンタリー映画一本を撮り映画監督業は事実上の引退となる。
神経質で引き攣ったような笑いも多分に含まれている、ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』や『ブルジョワジーの秘かなる愉しみ』での弛緩と緊迫が綯い交ぜになった資本家/ブルジョワジーのグロテスクな醜態を黒い笑いを踏まえて不条理劇として作り上げた、特に後期ブニュエル映画にとって欠かすことのできない存在の脚本家ジャン=クロード・カリエールはジャック・タチの『ぼくの伯父さん』のノベライズ担当、エテックスとはタチとの仕事で知り合い一緒に映画製作を行うことになる、それが『恋する男』となって結実しカリエールとエテックスの映画人生が始まる。
カリエールはその後様々な映画作家の名作の脚本を担いフランス映画界になくてはならない存在に上り詰める。
大島渚のオールフランスロケの『マックス・モン・アムール』でカリエールは脚本を担当、出演者にエテックス。
映画の因果応酬、『マックス・モン・アムール』もカリエールが脚本担当した『ブルジョワジーの秘かなる愉しみ』にも類似性が指摘できうる外観と内容どこまで意識したかは不明。エテックスの出演とカリエール脚本、意気投合した二人が他の映画監督作で久方ぶりの皆合、エテックス効果か定かではないが不条理なモードが徐々に映画全体へ拡張していく、幾分あいまいな境界線。
『マックス・モン・アムール』へ部分的オマージュを捧げたのがレオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』だ。
映画全体、ピエール・エテックス映画的要素が観られなくはない気もする。不条理連鎖劇でブニュエル色濃厚だけど。
忘れつつあった映画作家の名作が墓場から生還を果たす、大げさな物言いではない、一歩間違えれば永久にエテックスの映画が観られなくなった可能性があった。
こうしてピエール・エテックスの代表作が観賞できる環境が整った、悲喜劇とシニカルな身体表現を身上とした映画でのエテックスのパフォーマンスは後のMrビーンの登場すらも用意していたかのよう。
今後日本でピエール・エテックスの研究が進むことを願う。
参考文献
ピエール・エテックス レトロスペクティブ・パンフレット
タグ :フランス映画
Posted by NaohikoIsikawa at
02:09
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2023年05月16日
自作で自伝を描くということ 語りえないことと聡明に語ることの忌避
新作『フェイブルマンズ』を華麗に魅せつけられて現時点のスピルバーグとは自己への書き換えを難なく行える地点にまでいるのかと観賞後即時的に思う。この監督はどこへ向かうのだろう。
スピルバーグ監督その名を記すことはどような意味を持つのだろう。
映画を知らない層にも名が知られた現代の名監督/名匠である、エンタメ系からヒューマンドラマ、政治/社会派映画まで手掛け製作や他の映画監督へのサポートも多岐にわたる。ジャンルの幅広さをもつ映画監督である。一時のテレビでの映画劇場は放送が頻繁に行われていた時期にスピルバーグの映画もよく放映されていた、テレビ視聴から映画へ入口として格好の映画を作り続けた監督だった。
映画『未知との遭遇』『E.T.』は映画の面白さと映画の世界で物語られる人々の魅力と絆のようなものを的確に伝え、映画への水先案内人のように機能してもいた。映画『未知との遭遇』にはあのトリュフォーが役者として出演している。後年になって『未知との遭遇』でトリュフォーが主演したことを知った、いや一度は観たはずだがトリュフォーだとは認識できなかった。後年になって再見した折にトリュフォーであると改めて認識し映画『未知との遭遇』は何も未知だけの遭遇だけではなく映画史への遭遇も忍ばせていた。
スピルバーグはハリウッド第五世代に属する、同時代ではニューシネマが吹き荒れた。ニューシネマのはじまり『俺たちに明日はない』がニューシネマの始まりとされ『イージーライダー』でスタイルを確立。本国アメリカではニューシネマではなくはハリウッドルネサンス/The Hollywood Renaissanceまたはアメリカンニューウェイヴ/American New Waveと呼ばれている、ニューシネマは本国では前衛かつアンダーグラウンド映画の新たなる動きのことを指す。
スピルバーグはニューシネマの範疇には該当しない、劇場デビュー作『続・激突!/カージャック』は時代の煽りを受けニューシネマスタイルで撮られている、時代と予算と人的制約が生んだ映画だろう。先ごろリバイバル上映が実現した『バニシング・ポイント』は初期スピルバーグに影響を与えた重要作でありニューシネマの名作。フラッシュバック手法を多用し主人公コワルスキーの自滅を描く、加速するスピードと乾いた質感、ラジオ局から発せられるソウル。映像に収められた雰囲気は初期の2作『激突』『続・激突!/カージャック』に酷似している。粒子の粗野さが生む時代的共振と言い換えることができる。スピルバーグは『バニシング・ポイント』について興味深いコメントを残している「私のフェイヴァリット映画の1つは『バニシング・ポイント』です。また孤独な道が無に続く『イット・フロム・アウター・スペース』という映画の素晴らしいポスターを覚えていて、実際にそれは『未知との遭遇』に取り入れようとしました。したがって、直線道路が消失点に向かっているとい考えは私にとってとても説得力のあるものなのです」
映画『激突』1971年11月3日に撮影が終了している『バニシング・ポイント』の全米公開は1971年3月13日、当時スピルバーグもこの時期に観た可能性は高い。
劇場でデビュー作の前にテレビ映画用の『激突』を撮っている。ヒッチハイクの名作『北北西に進路をとれ』の無人飛行機のプロットを拝借し無人トラックがひたすら自動車を追いかける。無目的で無機的、動機なき追跡にただひたすら追うことと追われることを描く。
なぜ、無人トラックが追いかけるのか、その答えも明かされぬままエンディングを迎える。
後のスピルバーグとは違い全編にわたりスリリングと恐怖を感じさせる、映画『悪魔のいけにえ』は映画『激突』から約2年後に公開されるが空気感に共通するものを感じさせる。映画『激突』の無人トラックと映画『悪魔のいけにえ』のレザーフェイス、ベトナム戦争や当時のアメリカ社会全般に広がっていた不安を即物的恐怖へ転換させる物体への転換。
ここまで初期スピルバーグに記したのは映画『フェイブルマンズ』が映画『激突』を撮る直前で物語を終えてしまうことにによる、映画史的に重要なデビュー作への言及を自伝的映画でものの見事に回避。映画全体も映画言及は至って控えめだ、映画史的に重要な映画をオープニングに映し出し映画的な拘泥への最初の一歩になる。その後のセシル・B・デミル監督の映画『史上最大のショウ』の機関車の踏切で車のエンストが起きた劇中の主人公が間一髪で逃れる場面に酷くショックを受けスピルバーグ少年にトラウマを齎すまでに及ぶ。
映画内は順調に活劇し卓越な編集によって飽きさせない手腕は見事と言うほかない、映画的面白さに軸を置き映画史的検討を怠ったと訝しくも感じる。中判に引用されるジョン・フォード監督の名作『リバティ・バランスを射った男』これがラストへの伏線になっている、だが劇中のスピルバーグ少年がどのようにして映画的技術を確立したのかは描かれない、省かれた部分を丹念に描くべきだった。
せっかくセシル・B・デミルとジョン・フォードを引用したのだから実際の二人は確執が起きた、赤狩りの時代に。
深刻な話題、シネフィルが期待しそうな描写を疎外させ映画は万人受けする企てで進行する。
自己を語ることをここまで躊躇せず自伝的映画と謳って映画を製作し公開させる地位まで気づいたスピルバーグ。
本作『フェイブルマン』には何かが足りないと思う。
その足りなさ、不在さが今現在のスピルバーグを取り巻く課題なのかもしれない。
不在、言及されなかったデビュー作テレビ映画『激突』を物語へ組み込むことを拒否した時点でスピルバーグは自己の立ち位置を映画史的検討を真摯に行うことも拒否したに等しい。この点について私は徹底的に批判する。
劇中の青年への成長したスピルバーグがテレビ番組の仕事にたどり着きジョン・フォードとの面会を迎え映画は終幕。
こうしたご都合主義な半生ならば誰もが描き得る。
私はスピルバーグの最高傑作『ミュンヘン』だと信じて疑わない、『フェイブルマン』の構想は『ミュンヘン』の撮影の合間に会話が元になっているらしくその逸話に甚だしく奇妙な憤りのようなような感覚を覚えずにおられない。
そうした態度は慎もう、誰もが彼スピルバーグの映画に賛辞を送り、面白かったと愚劣なレベルで垂れ流される安易な感想しか言えぬ映画をただ観る人々を作ってしまった功罪がスピルバーグにあるかもしれない。映画をエンタメでしか考えない凡庸な人々は映画を遡及し現代と過去を反芻しながら映画史へ没入を拒絶している、であるからこそ娯楽的な映画から映画はいつになく囲い込まれている時代に入り、映画を観ることは困難さを常に伴う。困難さを回避しながら映画を観る行為自体が映画を本質的に観ることから遠ざけている。
参考文献
映画『バニシング・ポイント』リバイバル上映パンフレット
筈見有弘 『ヒッチハイク』 講談社現代新書
文藝春秋編 『大アンケートによるミステリーサスペンス洋画ベスト150』 文春文庫
スピルバーグ監督その名を記すことはどような意味を持つのだろう。
映画を知らない層にも名が知られた現代の名監督/名匠である、エンタメ系からヒューマンドラマ、政治/社会派映画まで手掛け製作や他の映画監督へのサポートも多岐にわたる。ジャンルの幅広さをもつ映画監督である。一時のテレビでの映画劇場は放送が頻繁に行われていた時期にスピルバーグの映画もよく放映されていた、テレビ視聴から映画へ入口として格好の映画を作り続けた監督だった。
映画『未知との遭遇』『E.T.』は映画の面白さと映画の世界で物語られる人々の魅力と絆のようなものを的確に伝え、映画への水先案内人のように機能してもいた。映画『未知との遭遇』にはあのトリュフォーが役者として出演している。後年になって『未知との遭遇』でトリュフォーが主演したことを知った、いや一度は観たはずだがトリュフォーだとは認識できなかった。後年になって再見した折にトリュフォーであると改めて認識し映画『未知との遭遇』は何も未知だけの遭遇だけではなく映画史への遭遇も忍ばせていた。
スピルバーグはハリウッド第五世代に属する、同時代ではニューシネマが吹き荒れた。ニューシネマのはじまり『俺たちに明日はない』がニューシネマの始まりとされ『イージーライダー』でスタイルを確立。本国アメリカではニューシネマではなくはハリウッドルネサンス/The Hollywood Renaissanceまたはアメリカンニューウェイヴ/American New Waveと呼ばれている、ニューシネマは本国では前衛かつアンダーグラウンド映画の新たなる動きのことを指す。
スピルバーグはニューシネマの範疇には該当しない、劇場デビュー作『続・激突!/カージャック』は時代の煽りを受けニューシネマスタイルで撮られている、時代と予算と人的制約が生んだ映画だろう。先ごろリバイバル上映が実現した『バニシング・ポイント』は初期スピルバーグに影響を与えた重要作でありニューシネマの名作。フラッシュバック手法を多用し主人公コワルスキーの自滅を描く、加速するスピードと乾いた質感、ラジオ局から発せられるソウル。映像に収められた雰囲気は初期の2作『激突』『続・激突!/カージャック』に酷似している。粒子の粗野さが生む時代的共振と言い換えることができる。スピルバーグは『バニシング・ポイント』について興味深いコメントを残している「私のフェイヴァリット映画の1つは『バニシング・ポイント』です。また孤独な道が無に続く『イット・フロム・アウター・スペース』という映画の素晴らしいポスターを覚えていて、実際にそれは『未知との遭遇』に取り入れようとしました。したがって、直線道路が消失点に向かっているとい考えは私にとってとても説得力のあるものなのです」
映画『激突』1971年11月3日に撮影が終了している『バニシング・ポイント』の全米公開は1971年3月13日、当時スピルバーグもこの時期に観た可能性は高い。
劇場でデビュー作の前にテレビ映画用の『激突』を撮っている。ヒッチハイクの名作『北北西に進路をとれ』の無人飛行機のプロットを拝借し無人トラックがひたすら自動車を追いかける。無目的で無機的、動機なき追跡にただひたすら追うことと追われることを描く。
なぜ、無人トラックが追いかけるのか、その答えも明かされぬままエンディングを迎える。
後のスピルバーグとは違い全編にわたりスリリングと恐怖を感じさせる、映画『悪魔のいけにえ』は映画『激突』から約2年後に公開されるが空気感に共通するものを感じさせる。映画『激突』の無人トラックと映画『悪魔のいけにえ』のレザーフェイス、ベトナム戦争や当時のアメリカ社会全般に広がっていた不安を即物的恐怖へ転換させる物体への転換。
ここまで初期スピルバーグに記したのは映画『フェイブルマンズ』が映画『激突』を撮る直前で物語を終えてしまうことにによる、映画史的に重要なデビュー作への言及を自伝的映画でものの見事に回避。映画全体も映画言及は至って控えめだ、映画史的に重要な映画をオープニングに映し出し映画的な拘泥への最初の一歩になる。その後のセシル・B・デミル監督の映画『史上最大のショウ』の機関車の踏切で車のエンストが起きた劇中の主人公が間一髪で逃れる場面に酷くショックを受けスピルバーグ少年にトラウマを齎すまでに及ぶ。
映画内は順調に活劇し卓越な編集によって飽きさせない手腕は見事と言うほかない、映画的面白さに軸を置き映画史的検討を怠ったと訝しくも感じる。中判に引用されるジョン・フォード監督の名作『リバティ・バランスを射った男』これがラストへの伏線になっている、だが劇中のスピルバーグ少年がどのようにして映画的技術を確立したのかは描かれない、省かれた部分を丹念に描くべきだった。
せっかくセシル・B・デミルとジョン・フォードを引用したのだから実際の二人は確執が起きた、赤狩りの時代に。
深刻な話題、シネフィルが期待しそうな描写を疎外させ映画は万人受けする企てで進行する。
自己を語ることをここまで躊躇せず自伝的映画と謳って映画を製作し公開させる地位まで気づいたスピルバーグ。
本作『フェイブルマン』には何かが足りないと思う。
その足りなさ、不在さが今現在のスピルバーグを取り巻く課題なのかもしれない。
不在、言及されなかったデビュー作テレビ映画『激突』を物語へ組み込むことを拒否した時点でスピルバーグは自己の立ち位置を映画史的検討を真摯に行うことも拒否したに等しい。この点について私は徹底的に批判する。
劇中の青年への成長したスピルバーグがテレビ番組の仕事にたどり着きジョン・フォードとの面会を迎え映画は終幕。
こうしたご都合主義な半生ならば誰もが描き得る。
私はスピルバーグの最高傑作『ミュンヘン』だと信じて疑わない、『フェイブルマン』の構想は『ミュンヘン』の撮影の合間に会話が元になっているらしくその逸話に甚だしく奇妙な憤りのようなような感覚を覚えずにおられない。
そうした態度は慎もう、誰もが彼スピルバーグの映画に賛辞を送り、面白かったと愚劣なレベルで垂れ流される安易な感想しか言えぬ映画をただ観る人々を作ってしまった功罪がスピルバーグにあるかもしれない。映画をエンタメでしか考えない凡庸な人々は映画を遡及し現代と過去を反芻しながら映画史へ没入を拒絶している、であるからこそ娯楽的な映画から映画はいつになく囲い込まれている時代に入り、映画を観ることは困難さを常に伴う。困難さを回避しながら映画を観る行為自体が映画を本質的に観ることから遠ざけている。
参考文献
映画『バニシング・ポイント』リバイバル上映パンフレット
筈見有弘 『ヒッチハイク』 講談社現代新書
文藝春秋編 『大アンケートによるミステリーサスペンス洋画ベスト150』 文春文庫
タグ :アメリカ映画
2023年05月01日
ケイコと無名のケイコ
障害を有する者を題材とした映画は国内外でこれまでにも多く製作されてきた。
映画『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督のライバルとも言える三宅唱監督による映画『ケイコ 目を澄ませて』は口が利けない聴覚障害の主人公を軸に物語が進む。
元プロボクサー・小笠原恵子の自伝『負けないで!』を原案を脚色。16mフィルムで撮影された映像は郷愁的で刹那的、前時代的でありともすれば時代錯誤と受け取られかねない手法。
異様に高い評価を受けているが本作の評価自体が邦画全体への底上げには繋がらないだろう。
映画『ドライブ・マイ・カー』の軒並み高い評価を受け世界の映画賞を受賞した邦画では前代未聞の到達したけれどもだからと言って邦画全体は底上げにもならなかったことだけが厳然とある。
私がここで指摘した底上げとは映画を観る客のスタイルの変容まで至らなかった、日本全体で見渡せば『ドライブ・マイ・カー』の話題とヒットはある映画のヒットとして消費されて終わっただけなのだ。だが映画は残った。現在の邦画に過剰に期待するべきでもないし過剰に批判するべきでもないが状況は悪化の一途。
日本映画のミニシアター系特有の作劇スタイルを私は常日頃から批判的意志を崩すことはないしこれからもそのような態度であることに些かの態度変更はない。映画『宮松と山下』での本ブログで批評したので繰り返さないが、敢えて記すと邦画にはある種のパラドックスに陥っている。
このパラドックスから抜け出れない限り邦画全体はいづれは沈んでいくだろう。
実は多くの論者が指摘もしていないことなのだが映画『ケイコ 目を澄ませて』は90年代以降のミニシアター系邦画が陥穽していく隘路に入らないような戦略的と言いうるような演出空間が差異となり投げれかけられている。
ここで唐突に敢えてあるひとりの映画監督の名を挙げる、青山真治。やはり『ユリイカ』を挙げないわけにはいかない。
ゼロ年代の名作であり90年代に終止符を打ちゼロ年代の道標に必然的に背負うことになってしまった映画。
寡黙な演出と監督自身のシネフィル性は邦画の作家主義系監督に見られる傾向でかつての蓮實重彦門下生や『ユリイカ』に登場する監督などはその部類に該当する。映画『ユリイカ』の寡黙にして迂回する苦悩を世界を背負い込んだと思わしき男と子供たちの物語は日本映画のその後を呪縛させてしまった。底辺と停滞する社会と自己の洞察から始発しなければならなかったゼロ年代以降の映画は当初から歪な状況下におかれていたのかもしれない。その歪さの軛からへのいかにして脱出を試みることができるのか、邦画への希望はそれまで蓄積してきたの邦画全体に及ぶ作風と演出を脱構築することである。
映画『ケイコ 目を澄ませて』は停滞している邦画には稀有な映画への深い洞察に満ちていることが、やや多幸気味に物語られる。
映画にサイレント映画を模した字幕表記が挿入されシネフィルである三宅唱監督であるのだから映画史的配慮なのだろう。
口が利けない登場人物を配置させ映画史的記憶に繋ぐ当たりは確信犯的行為とも言える。
固定ショットが極めて直観的感度でもって鋭く捉えられ映画全体の空気感がさりげなく自然体であるかのように醸し出す雰囲気づくりは巧いと率直に思う。ボクシングを題材にした映画はこれまでにも数多く製作されてきたし今後も国内で製作されるだろう。古くはニューシネマに該当しニューシネマを葬る相矛盾した立ち位置におかれた映画『ロッキー』が最も有名なのは記すまでもない。
映画『ケイコ 目を澄ませて』は日本映画も演出の創意工夫を施せば良質の映画ができることを証明した映画と言ってもいい。
何故ならば今現在製作される数多くの日本映画は過去作の踏襲及び冒険的な内容の映画が相対的現象に繋がりそれがに骨委が全体の保守硬化を引き起こしている要因と考えられるからだ。
ゼロ年代ごろ先に挙げた青山真治『ユリイカ』は冒険と日本映画の枠内で着地点を見出した得たからこそ語り継がれるな名作なのだろうし映画『ケイコ 目を澄ませて』に話を引き戻すとカメラの視点はけして寄り添うわけでもないし冷徹でもない、にも拘らずある種の信頼性のようなものがショットから放たれる瞬間に滲むようだ。監督=俳優=カメラの三角関係が映画のフォルムを決定づけること映画『ケイコ 目を澄ませて』には当たり前の図式を思い出させてくる古くて新しい映画とも言える。日本映画の間のある作りは良くも悪くも間延びした緩慢で怠惰で集中力の減退にしかならない演出が主流、その状況を逆手に取って主人公を口が利けない設定にしてしまったことは逆転の発想だろう、緩慢さを張り詰めた空気感へ見事に転化させた。
ここまで書き記していて絶賛の賛辞を激烈に送るのは控えよう。雑誌『ユリイカ』で特集が組まれたのもさもありなんという印象でしかない、濃厚な特集であったことは間違いないし資料的にも充実はしているけれどもどこかしら空回りもなくはない。
この映画を大絶賛してしまえるほど私は甘くはない、本作が今後のミニシアター系邦画の陥穽にならないことを願うばかり。
注文や意見も多いしかし映画『ケイコ 目を澄ませて』は傑作である。
映画『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督のライバルとも言える三宅唱監督による映画『ケイコ 目を澄ませて』は口が利けない聴覚障害の主人公を軸に物語が進む。
元プロボクサー・小笠原恵子の自伝『負けないで!』を原案を脚色。16mフィルムで撮影された映像は郷愁的で刹那的、前時代的でありともすれば時代錯誤と受け取られかねない手法。
異様に高い評価を受けているが本作の評価自体が邦画全体への底上げには繋がらないだろう。
映画『ドライブ・マイ・カー』の軒並み高い評価を受け世界の映画賞を受賞した邦画では前代未聞の到達したけれどもだからと言って邦画全体は底上げにもならなかったことだけが厳然とある。
私がここで指摘した底上げとは映画を観る客のスタイルの変容まで至らなかった、日本全体で見渡せば『ドライブ・マイ・カー』の話題とヒットはある映画のヒットとして消費されて終わっただけなのだ。だが映画は残った。現在の邦画に過剰に期待するべきでもないし過剰に批判するべきでもないが状況は悪化の一途。
日本映画のミニシアター系特有の作劇スタイルを私は常日頃から批判的意志を崩すことはないしこれからもそのような態度であることに些かの態度変更はない。映画『宮松と山下』での本ブログで批評したので繰り返さないが、敢えて記すと邦画にはある種のパラドックスに陥っている。
このパラドックスから抜け出れない限り邦画全体はいづれは沈んでいくだろう。
実は多くの論者が指摘もしていないことなのだが映画『ケイコ 目を澄ませて』は90年代以降のミニシアター系邦画が陥穽していく隘路に入らないような戦略的と言いうるような演出空間が差異となり投げれかけられている。
ここで唐突に敢えてあるひとりの映画監督の名を挙げる、青山真治。やはり『ユリイカ』を挙げないわけにはいかない。
ゼロ年代の名作であり90年代に終止符を打ちゼロ年代の道標に必然的に背負うことになってしまった映画。
寡黙な演出と監督自身のシネフィル性は邦画の作家主義系監督に見られる傾向でかつての蓮實重彦門下生や『ユリイカ』に登場する監督などはその部類に該当する。映画『ユリイカ』の寡黙にして迂回する苦悩を世界を背負い込んだと思わしき男と子供たちの物語は日本映画のその後を呪縛させてしまった。底辺と停滞する社会と自己の洞察から始発しなければならなかったゼロ年代以降の映画は当初から歪な状況下におかれていたのかもしれない。その歪さの軛からへのいかにして脱出を試みることができるのか、邦画への希望はそれまで蓄積してきたの邦画全体に及ぶ作風と演出を脱構築することである。
映画『ケイコ 目を澄ませて』は停滞している邦画には稀有な映画への深い洞察に満ちていることが、やや多幸気味に物語られる。
映画にサイレント映画を模した字幕表記が挿入されシネフィルである三宅唱監督であるのだから映画史的配慮なのだろう。
口が利けない登場人物を配置させ映画史的記憶に繋ぐ当たりは確信犯的行為とも言える。
固定ショットが極めて直観的感度でもって鋭く捉えられ映画全体の空気感がさりげなく自然体であるかのように醸し出す雰囲気づくりは巧いと率直に思う。ボクシングを題材にした映画はこれまでにも数多く製作されてきたし今後も国内で製作されるだろう。古くはニューシネマに該当しニューシネマを葬る相矛盾した立ち位置におかれた映画『ロッキー』が最も有名なのは記すまでもない。
映画『ケイコ 目を澄ませて』は日本映画も演出の創意工夫を施せば良質の映画ができることを証明した映画と言ってもいい。
何故ならば今現在製作される数多くの日本映画は過去作の踏襲及び冒険的な内容の映画が相対的現象に繋がりそれがに骨委が全体の保守硬化を引き起こしている要因と考えられるからだ。
ゼロ年代ごろ先に挙げた青山真治『ユリイカ』は冒険と日本映画の枠内で着地点を見出した得たからこそ語り継がれるな名作なのだろうし映画『ケイコ 目を澄ませて』に話を引き戻すとカメラの視点はけして寄り添うわけでもないし冷徹でもない、にも拘らずある種の信頼性のようなものがショットから放たれる瞬間に滲むようだ。監督=俳優=カメラの三角関係が映画のフォルムを決定づけること映画『ケイコ 目を澄ませて』には当たり前の図式を思い出させてくる古くて新しい映画とも言える。日本映画の間のある作りは良くも悪くも間延びした緩慢で怠惰で集中力の減退にしかならない演出が主流、その状況を逆手に取って主人公を口が利けない設定にしてしまったことは逆転の発想だろう、緩慢さを張り詰めた空気感へ見事に転化させた。
ここまで書き記していて絶賛の賛辞を激烈に送るのは控えよう。雑誌『ユリイカ』で特集が組まれたのもさもありなんという印象でしかない、濃厚な特集であったことは間違いないし資料的にも充実はしているけれどもどこかしら空回りもなくはない。
この映画を大絶賛してしまえるほど私は甘くはない、本作が今後のミニシアター系邦画の陥穽にならないことを願うばかり。
注文や意見も多いしかし映画『ケイコ 目を澄ませて』は傑作である。
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2023年04月09日
アメリカのアンダーグラウンド映画
ロバート・ダウニー・シニアは俳優のロバート・ダウニーJrの父親として知られているが、アンダーグラウンド映画の作りてであったことは一部でのみ知られている。世間的にロバート・ダウニーと聞くと映画『アイアンマン』を真っ先に上げる人が多数犇めくだろう。今のロバート・ダウニーJrの基礎を形成したのも映画監督である父ロバート・ダウニーの影響を抜きに語ることはできない。息子ロバート・ダウニーJrは個性的に役どころからメインに躍り出るとは些かある種のバッドドリームなのかもしれないが。対照的な父と息子、このロバート・ダウニー親子の関係に似ている親子がいる。
ニューシネマの時代に放った映画『アメリカを斬る』の監督ハスケル・ウェクスラーと長男の関係を描いたドキュメンタリー映画『マイ・シネマトグラファー』は息子マーク・ウェクスラーが監督している。ロバート・ダウニーJrも父を題材にドキュメンタリー映画を製作している、『"Sr.":ロバート・ダウニー・シニアの生涯』だ。
ロバート・ダウニー・シニア彼は元々は作家志望の軍人だった。
兵役期間の合間を縫って小説を書き結局それら小説は未発表のままになっている。創作する意志を継続させ次に向かっていったのが映画だ。
60年代のカウンターカルチャーの流れに乗って映画作りを志す。
彼の初期の重要な映画は日本で観る機会がこれまでなかった、アメリカ映画研究の書籍などではその重要性を指摘している記述があり、重要作品が観れないとは歯痒いと長年思ってきた。
1961年映画編集者のフレッド・フォン・ベルネヴィッツの協力を経て低予算16mmフィルム映画の自身の脚本で映画を撮る。
短編Balls Bluff(日本未公開作)は南北戦争に於ける兵士を題材に戦争のファンタジックな不条理劇でアンダーグラウンドシーンの支持を獲得。
ロバート・ダウニー・シニアの一連の初期作はジム・ジャームッシュ、ポール・トーマス・アンダーソンらに強く影響を与えており、日本未公開のまま。このまま放置してはならない!
しかし昨年唐突に事態は好転する。映画『パトニー・スウォープ』原題Putney Swopeが日本国内で劇場公開された。
劇場公開の予習として何度も予告編を観た。私個人60年代のアメリカのいわゆるニューシネマを一時期集中的に観た、並行して同時期のアンダーグラウンド映画もいくつか観た。実際の映画よりも資料での文字情報のほうが多いのだが。
アンダーグラウンド映画の代表的監督ジョナス・メカスがいる。
『パトニー・スウォープ』の劇場用パンフレットでロバート・ダウニー・シニアとアンダーグラウンド映画の作り手ジョナス・メカスとの対話の記事が再掲載されている。初出はムーヴィー・ジャーナル誌1969年7月10日号
ジョナス・メカスは対話で以下のような発言をしている
「狂気を描くためには作家はオーガナイズされていなくてはならなくてはいけない。
いずれにしても、見る者の視点からするとあなたはコメディーの中で最も難しいフォームを選んだと思います。『パトニー・スウォープ』の観客は全く何の手引きも与えられていないのです。腐敗を描くシーンと純粋を描くシーンが混じりあっているのです。正気と狂気とがです。ある意味で主題は語られずに突きつけられているだけ。そして多分、とても上手に突きつけられていると思います。広告業界に興味のある人は実地研修ツアーをこの映画で体験できるのではないでしょうか」
多少皮肉交じりであるとは言え本質を付いている評だ、映画批評家としても鋭い審美眼を持っていたジョナス・メカスならではの指摘だろう。
実地研修ツアーとは言えて妙だ。広告業界への水先案内人のような映画だと言いたかったのだろう。
『パトニー・スウォープ』は映画冒頭異様な空撮から始まる、高層ビルにヘリが着地し矢継ぎ早に重役会議シーンへ以降。
重役会議とは言え真面目なのか不真面目なのか見当もつかない人物ばかり、この重役会議で次の会社代表=最高経営責任者CEOを決めることになる。何故ならば本会議の冒頭で現最高経営責任者CEOがプレゼン中に急逝。
そこで投票が行われることに。誰もが票を入れないと思われた人物に評が集中してしまい、想定外の出来事が起きてしまうパトニー・スウォープ選出という事態に。奇抜極まりない広告を打ち出した会社は好調。だが内部は順風満帆とは行かなかった。
白人の監督が黒人を起用して当時のアメリカの広告代理店の宣伝の在り方を媒介にして情況への映画的アンサー、時代的波と映画製作の相乗効果で作り上げられた。
映画内で挿入される架空のCMは現実とのギッャプ著しい、しかしながらそのCMの謳い文句、現在の2023年のCM/広告と照らし合わせてもCM/広告がもつ特有の美辞麗句を過渡にデフォルメに成功している。であるからこそ今観ても視覚的強烈が残るのだ。
劇中モノクロが本編で劇中のCMがカラーという設定、CMに色があることが却ってCMの内容への陳腐さ露骨さを浮き立たせる。
モノクロ本編、ダークなグレーゾーンを綱渡りする広告企業の不穏な動きをモノクロ設定にすることによって企業体の不可解なあり方への違和の表象されるとみなすべき。大統領が動き圧力をかける下りは後の日本の文学作品でも見られる権力の描き方の類型を図らずも提示していることの些かの驚きを禁じ得ない。具体的固有名を挙げると日本の80年代文学が該当する『羊をめぐる冒険』『吉里吉里人』『裏声で歌え君が代』etc
劇中、陰謀と策謀が通奏/並走される辺り今日的主題論とさえ言えてしまうのもあくまでも現在地の知見からのもである謂いを逃れない。
ジョナス・メカスが指摘したように『パトニー・スウォープ』は広告業界の正気と狂気を描いている、けれども二項対立として描くのではなく曖昧で境界線もなく実は正気の延長線上に狂気あると仄めかしている構造だと言えなくもない。正気と狂気、合わせ鏡は自己崩壊を招いて自壊する運命を辿らざるを得ない。
ラストの自壊していく様はまるで当時のアメリカの自壊のような描写。
映画全体に酷く緩慢さとある種の緊張を孕んだ矛盾する空気感を内包しつつ映画はラフな映像は積み重ねられていく。
冒頭のヘリから矢継ぎ早に移行した会議シーンでは緊迫感溢れる演出だったが映画が進行するにつれ緩くなり中盤の社内オフィスでの手持ちカメラでの移動ショット、移動の限定が映画『パトニー・スウォープ』全体は非=移動映画とさえ言える。移動がなされていたとしても移動的な行動を観る側に訴えない。
秀逸なるショットが断片的にしか存在しないにもかかわらずショット不在を嘆いてみても始まらない。いやラスト付近のショットは見事だ。
インディペンデント映画のラフなリズム感に如何にして身体を乗せるのか、劇中の企業の名称がTruth and Soulが映画全体を揺さぶるリズムだった。
本作はロバート・ダウニー・シニア自身の広告関連の仕事の経験が生かされていると言われている。
陰謀と企業の倫理性、策謀とカリスマ統治、レイシスト、差別への抵抗それらが混在し一体となった『パトニー・スウォープ』は今観るべき1969年のアンダーグラウンド映画。2023年に於いても強烈な些かも錆びつかない映画であろう。
参考文献
『パトニー・スウォープ』劇場パンフレット
ニューシネマの時代に放った映画『アメリカを斬る』の監督ハスケル・ウェクスラーと長男の関係を描いたドキュメンタリー映画『マイ・シネマトグラファー』は息子マーク・ウェクスラーが監督している。ロバート・ダウニーJrも父を題材にドキュメンタリー映画を製作している、『"Sr.":ロバート・ダウニー・シニアの生涯』だ。
ロバート・ダウニー・シニア彼は元々は作家志望の軍人だった。
兵役期間の合間を縫って小説を書き結局それら小説は未発表のままになっている。創作する意志を継続させ次に向かっていったのが映画だ。
60年代のカウンターカルチャーの流れに乗って映画作りを志す。
彼の初期の重要な映画は日本で観る機会がこれまでなかった、アメリカ映画研究の書籍などではその重要性を指摘している記述があり、重要作品が観れないとは歯痒いと長年思ってきた。
1961年映画編集者のフレッド・フォン・ベルネヴィッツの協力を経て低予算16mmフィルム映画の自身の脚本で映画を撮る。
短編Balls Bluff(日本未公開作)は南北戦争に於ける兵士を題材に戦争のファンタジックな不条理劇でアンダーグラウンドシーンの支持を獲得。
ロバート・ダウニー・シニアの一連の初期作はジム・ジャームッシュ、ポール・トーマス・アンダーソンらに強く影響を与えており、日本未公開のまま。このまま放置してはならない!
しかし昨年唐突に事態は好転する。映画『パトニー・スウォープ』原題Putney Swopeが日本国内で劇場公開された。
劇場公開の予習として何度も予告編を観た。私個人60年代のアメリカのいわゆるニューシネマを一時期集中的に観た、並行して同時期のアンダーグラウンド映画もいくつか観た。実際の映画よりも資料での文字情報のほうが多いのだが。
アンダーグラウンド映画の代表的監督ジョナス・メカスがいる。
『パトニー・スウォープ』の劇場用パンフレットでロバート・ダウニー・シニアとアンダーグラウンド映画の作り手ジョナス・メカスとの対話の記事が再掲載されている。初出はムーヴィー・ジャーナル誌1969年7月10日号
ジョナス・メカスは対話で以下のような発言をしている
「狂気を描くためには作家はオーガナイズされていなくてはならなくてはいけない。
いずれにしても、見る者の視点からするとあなたはコメディーの中で最も難しいフォームを選んだと思います。『パトニー・スウォープ』の観客は全く何の手引きも与えられていないのです。腐敗を描くシーンと純粋を描くシーンが混じりあっているのです。正気と狂気とがです。ある意味で主題は語られずに突きつけられているだけ。そして多分、とても上手に突きつけられていると思います。広告業界に興味のある人は実地研修ツアーをこの映画で体験できるのではないでしょうか」
多少皮肉交じりであるとは言え本質を付いている評だ、映画批評家としても鋭い審美眼を持っていたジョナス・メカスならではの指摘だろう。
実地研修ツアーとは言えて妙だ。広告業界への水先案内人のような映画だと言いたかったのだろう。
『パトニー・スウォープ』は映画冒頭異様な空撮から始まる、高層ビルにヘリが着地し矢継ぎ早に重役会議シーンへ以降。
重役会議とは言え真面目なのか不真面目なのか見当もつかない人物ばかり、この重役会議で次の会社代表=最高経営責任者CEOを決めることになる。何故ならば本会議の冒頭で現最高経営責任者CEOがプレゼン中に急逝。
そこで投票が行われることに。誰もが票を入れないと思われた人物に評が集中してしまい、想定外の出来事が起きてしまうパトニー・スウォープ選出という事態に。奇抜極まりない広告を打ち出した会社は好調。だが内部は順風満帆とは行かなかった。
白人の監督が黒人を起用して当時のアメリカの広告代理店の宣伝の在り方を媒介にして情況への映画的アンサー、時代的波と映画製作の相乗効果で作り上げられた。
映画内で挿入される架空のCMは現実とのギッャプ著しい、しかしながらそのCMの謳い文句、現在の2023年のCM/広告と照らし合わせてもCM/広告がもつ特有の美辞麗句を過渡にデフォルメに成功している。であるからこそ今観ても視覚的強烈が残るのだ。
劇中モノクロが本編で劇中のCMがカラーという設定、CMに色があることが却ってCMの内容への陳腐さ露骨さを浮き立たせる。
モノクロ本編、ダークなグレーゾーンを綱渡りする広告企業の不穏な動きをモノクロ設定にすることによって企業体の不可解なあり方への違和の表象されるとみなすべき。大統領が動き圧力をかける下りは後の日本の文学作品でも見られる権力の描き方の類型を図らずも提示していることの些かの驚きを禁じ得ない。具体的固有名を挙げると日本の80年代文学が該当する『羊をめぐる冒険』『吉里吉里人』『裏声で歌え君が代』etc
劇中、陰謀と策謀が通奏/並走される辺り今日的主題論とさえ言えてしまうのもあくまでも現在地の知見からのもである謂いを逃れない。
ジョナス・メカスが指摘したように『パトニー・スウォープ』は広告業界の正気と狂気を描いている、けれども二項対立として描くのではなく曖昧で境界線もなく実は正気の延長線上に狂気あると仄めかしている構造だと言えなくもない。正気と狂気、合わせ鏡は自己崩壊を招いて自壊する運命を辿らざるを得ない。
ラストの自壊していく様はまるで当時のアメリカの自壊のような描写。
映画全体に酷く緩慢さとある種の緊張を孕んだ矛盾する空気感を内包しつつ映画はラフな映像は積み重ねられていく。
冒頭のヘリから矢継ぎ早に移行した会議シーンでは緊迫感溢れる演出だったが映画が進行するにつれ緩くなり中盤の社内オフィスでの手持ちカメラでの移動ショット、移動の限定が映画『パトニー・スウォープ』全体は非=移動映画とさえ言える。移動がなされていたとしても移動的な行動を観る側に訴えない。
秀逸なるショットが断片的にしか存在しないにもかかわらずショット不在を嘆いてみても始まらない。いやラスト付近のショットは見事だ。
インディペンデント映画のラフなリズム感に如何にして身体を乗せるのか、劇中の企業の名称がTruth and Soulが映画全体を揺さぶるリズムだった。
本作はロバート・ダウニー・シニア自身の広告関連の仕事の経験が生かされていると言われている。
陰謀と企業の倫理性、策謀とカリスマ統治、レイシスト、差別への抵抗それらが混在し一体となった『パトニー・スウォープ』は今観るべき1969年のアンダーグラウンド映画。2023年に於いても強烈な些かも錆びつかない映画であろう。
参考文献
『パトニー・スウォープ』劇場パンフレット
タグ :アメリカアンダーグラウンド映画
2023年03月27日
追悼 吉田喜重
昨年2022年12月8日、映画監督吉田喜重が亡くなった享年89歳だった。1941年12月8日は太平洋戦争が勃発した日、戦争が起こされた日に生誕した映画監督吉田喜重、その後の足跡を考えると歴史的負荷を受けて生まれてきたかのようだ。余談になるが昨年は多くの映画人が亡くなった崔洋一、大森一樹、青山真治、ゴダール、蓮實重彦的に言えば映画崩壊前夜とでも言える映画の死を迫る崩壊のようなものが迫っている。
1941年の12月11日、太平洋戦争の開戦から3日後戦時下の日本で劇場公開された映画それは『次郎物語』だった。開戦の12月8日に公開された映画はなかった模様。
吉田喜重は松竹映画で木下恵介、小津安二郎の製作アシスタントを経験しその小津安二郎の映画製作の手法に半ば共感しつつも内心反発をもち、小津的映画と違うスタイルを目指すべく若手作家として映画を撮ることになる。戦後間もなき時代にアテネフランセに足繫く頻繁に通いフランス映画に没頭する。フランス語を覚えるためであったという。アテネフランセ通いが初期の『ろくでなし』を生むことに繋がる。
映画『ろくでなし』はゴダールのデビュー作『勝手にしやがれ』を下敷きに1960年代初頭の日本で当時映画の最先端だったフランスヌーヴェルヴァーグを日本映画に導入した画期な映画作品。
当時の日本でゴダール『勝手にしやがれ』に影響を受けた映画作家は数多くいるが公開直後の日本国内で『勝手にしやがれ』を下敷きにした映画を撮った吉田喜重だけだった。当時の日本と世界を見渡してみても唯一無二だったと言っていい。後にパートナーとなる女優の岡田茉莉子は公開当時『ろくでなし』を観た直後に思ったことを自伝で語っている。
「ろくでなしのラストシーンで、拳銃を撃たれる主人公を、津川雅彦さんが演じていた。この大学生は仲間たちの前で、いつも拳銃で撃たれるふりをして、俺はろくでなしだ!と自嘲気味もつぶやく演技をする。この場面を見ていると、津川さんがいわば遊戯として演じているアクションが、普通の映画に見られる演技であって、それ以外の彼の演技は何なのだろうと、考えさせられてしまう。
映像にしても、映画が描こうとする物語のためではなく、映像そのものが、映像とは何か?と問いかけてくる。そして、映画は映画監督がつくるものであり、俳優はその素材にすぎないことを、改めて知らされるような作品だった」と当時の見た情況はあまりにも鮮烈であったことを述べている。
岡田茉莉子の素材としての俳優論と吉田喜重の映画を問う映画の手法はお互いを強く結びつけることになる。
吉田喜重は60年代半ばに独立し独立プロダクション現代映画社を立ち上げる。
大資本松竹映画では実現できなかった映画を現代映画社を通して自分自身が撮りたい映画をコンスタントに撮る、そして60年代後半になるとATGから作品を発表。政治の季節と文化の急進主義は吉田喜重作品に深い影響を与える。
大島渚が『新宿泥棒日記』ラストに唐突に挿入された1968年10月21日の新宿騒乱の映像。観る側に意表を突く形で提示された大島渚なりの現実への意思表明であった。吉田喜重の政治的な傾斜と言えば『エロス+虐殺 』と『煉獄エロイカ』だろう。
両作品とも大きく古典的/伝統的スタイルの日本映画から逸脱し映画内の説話的スタイルに拘泥しつつも映画の文法へ差異化させる演出が企てられる。
旺盛な60年代と比較すると70年代と80年代の吉田喜重は作品本数が極端なまでに減少、70年代は先に挙げた『煉獄エロイカ』『告白的女優論』『戒厳令』そして異色作と言えるあのホームラン王の王貞治に迫った『BIG-1物語 王貞治』の4本。
80年代は『人間の約束』と『嵐が丘』の僅か2本。
90年代は長きにわたる停滞、主にテレビでのドキュメンタリー番組を手掛ける。
2000年代は1本だけ『鏡の女たち』が遺作になってしまった。なぜ『鏡の女たち』以降映画を撮らなくなったのか、撮れなかったのか、様々な要因が重なっただろうことは容易に察しが付く。だが映画作家吉田喜重への評価は国内では2000年代以降から再評価されつつありながらも残念ながら『鏡の女たち』に続く映画を撮ることが果たさなかった。
テレビで手掛けたドキュメンタリー番組で小津安二郎に迫る『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界 』で小津作品を真正面から捉える、その後著作『小津安二郎の反映画』として結実する。
言うまでもなく吉田喜重の恩師である小津安二郎の映画のスタイルは異様に低いローアングルから日本家屋を捉え日本の家庭劇に拘泥した作風で知られる、家庭を舞台にした映画以外にもギャング映画などのいわゆるジャンル映画を手掛けている。
小津安二郎の映画は欧米のレトロスペクティブを通じて作家として発見され晩年のフランソワ・トリュフォーやポール・シュレイダーも賞賛するなど、小津神話に貢献。
こうした小津の映画スタイル、俳優を駒のように監督の指示通りに演技を行う俳優を好みいかなる逸脱も許容しない父権的振舞い小津の映画に反発したのが吉田喜重であり大島渚そして今村昌平だった。
吉田喜重の松竹時代を代表すると同時に初期の名作と謳われる『秋津温泉』は松竹らしからぬ映画だろう。映画『秋津温泉』の出だしは典型的な松竹映画の体裁で始まる、しかし映画が進行すると客側の期待を悉く裏切る。その裏切りは客の想定内、松竹映画の枠組みの映画が進行すると思わせる体裁を装うこと。確信犯的意図。遺作『鏡の女たち』にまで繋がる戦争と女の視点が早くも表象されている。
奇しくも『鏡の女たち』の約3年前に大島渚が遺作となってしまった『御法度』を発表している。
日本の場合、松竹映画は大資本会社であり日本のヌーヴェルヴァーグの作家たちは専属監督として松竹映画に雇用されている。
フランスにおいて映画の作家たちによる批評行為を背景とした運動体であり芸術運動ヌーヴェルヴァーグと根本的に意味と社会的背景が違う。類似する点はいくつか上げられる、吉田喜重と大島渚がともに映画理論と批評の書き手であったこと現在置かれている自国映画に対して徹底的な批判意識があるということ。日本とフランスのヌーヴェルヴァーグの違いも指摘しておくとフランスは批評家たちが現状への苛立ちを募らせ、批評の先に自分で映画を撮り不当に貶められた映画作家を再定義/再評価を与えたこと。撮影所内での若手の台頭が日本の松竹ヌーヴェルヴァーグと呼称される動き、フランスはカイエ・デュ・シネマが母体となった動き。撮影所内と外、内部と外部という差異が明確に横たわる。
相違点を認識する前に松竹ヌーヴェルヴァーグと言われた作家たちはその松竹から独立する動きを見せる。
大島渚は創造社、吉田喜重は現代映画社、篠田正浩は表現社。この時代の日本映画は映画会社の独占的事業形態、自社が経営する映画館を所有し自社作品しか映画館では上映できない仕組みとなっいていた。映画監督を規定する要素に師事する監督の下でつくとやがては監督になれる縦社会、そうした柵を打破する思想と行動を持った松竹内のヌーヴェルヴァーグと呼称された吉田喜重と大島渚はその後独立していくことになる。
吉田喜重の作品を取り上げ論じる、まずは映画『秋津温泉』
前述したように典型な松竹映画とは些か趣を異にする映画である。まず第一に挙げていくべきは映画『秋津温泉』は成瀬巳喜男のティストが感じられること、成瀬巳喜男監督の名作『浮雲』は今では余り顧みられることがない日本映画50年代期の名作。戦時中のインドネシアでの経験を戦後も引きずり込んで男女の関係性の中に植民地支配の問題、その中で宿命的に出会わざるを得なかった男女の戦後社会における戦時の傷が悲劇的に描かれる。映画『浮雲』で出演していたのが岡田茉莉子だった。
映画『秋津温泉』はメロドラマのフォーマットに即しながらメロドラマ性を表象し脱構築的な企てを図る。
『浮雲』のようなある種の拘泥のわかりやすさは『秋津温泉』での男女間の拘泥のありようは複雑で安易な理解を拒否している。
温泉宿内のカメラワークはどこか情緒を排している、メロドラマ性をシニカルな態度で監督は挑みながらメロドラマに反メロドラマを内在化させた映画だと言える。
戦後17年の関係性に拘束された男女の拘泥の反復過程、それはメロドラマというよりも一種の悲喜劇と置換されるべきかもしれない。
であるからこそ相反する要素の混在を『秋津温泉』のなかに描いた吉田喜重は松竹映画のある種の総括を企図したかもしれない。
吉田喜重の7冊の著作や短編映画など触れなけならないことは多数あった。
とは言えはここで吉田喜重の追悼として拙文ではあるが結びとさせていただきたい。
付記
ここで論じきれなかった作品は機会を改めて論じることいたします。
参考文献
女優 岡田茉莉子 文藝春秋
四方田犬彦 編著 吉田喜重の全体像 作品社
1941年の12月11日、太平洋戦争の開戦から3日後戦時下の日本で劇場公開された映画それは『次郎物語』だった。開戦の12月8日に公開された映画はなかった模様。
吉田喜重は松竹映画で木下恵介、小津安二郎の製作アシスタントを経験しその小津安二郎の映画製作の手法に半ば共感しつつも内心反発をもち、小津的映画と違うスタイルを目指すべく若手作家として映画を撮ることになる。戦後間もなき時代にアテネフランセに足繫く頻繁に通いフランス映画に没頭する。フランス語を覚えるためであったという。アテネフランセ通いが初期の『ろくでなし』を生むことに繋がる。
映画『ろくでなし』はゴダールのデビュー作『勝手にしやがれ』を下敷きに1960年代初頭の日本で当時映画の最先端だったフランスヌーヴェルヴァーグを日本映画に導入した画期な映画作品。
当時の日本でゴダール『勝手にしやがれ』に影響を受けた映画作家は数多くいるが公開直後の日本国内で『勝手にしやがれ』を下敷きにした映画を撮った吉田喜重だけだった。当時の日本と世界を見渡してみても唯一無二だったと言っていい。後にパートナーとなる女優の岡田茉莉子は公開当時『ろくでなし』を観た直後に思ったことを自伝で語っている。
「ろくでなしのラストシーンで、拳銃を撃たれる主人公を、津川雅彦さんが演じていた。この大学生は仲間たちの前で、いつも拳銃で撃たれるふりをして、俺はろくでなしだ!と自嘲気味もつぶやく演技をする。この場面を見ていると、津川さんがいわば遊戯として演じているアクションが、普通の映画に見られる演技であって、それ以外の彼の演技は何なのだろうと、考えさせられてしまう。
映像にしても、映画が描こうとする物語のためではなく、映像そのものが、映像とは何か?と問いかけてくる。そして、映画は映画監督がつくるものであり、俳優はその素材にすぎないことを、改めて知らされるような作品だった」と当時の見た情況はあまりにも鮮烈であったことを述べている。
岡田茉莉子の素材としての俳優論と吉田喜重の映画を問う映画の手法はお互いを強く結びつけることになる。
吉田喜重は60年代半ばに独立し独立プロダクション現代映画社を立ち上げる。
大資本松竹映画では実現できなかった映画を現代映画社を通して自分自身が撮りたい映画をコンスタントに撮る、そして60年代後半になるとATGから作品を発表。政治の季節と文化の急進主義は吉田喜重作品に深い影響を与える。
大島渚が『新宿泥棒日記』ラストに唐突に挿入された1968年10月21日の新宿騒乱の映像。観る側に意表を突く形で提示された大島渚なりの現実への意思表明であった。吉田喜重の政治的な傾斜と言えば『エロス+虐殺 』と『煉獄エロイカ』だろう。
両作品とも大きく古典的/伝統的スタイルの日本映画から逸脱し映画内の説話的スタイルに拘泥しつつも映画の文法へ差異化させる演出が企てられる。
旺盛な60年代と比較すると70年代と80年代の吉田喜重は作品本数が極端なまでに減少、70年代は先に挙げた『煉獄エロイカ』『告白的女優論』『戒厳令』そして異色作と言えるあのホームラン王の王貞治に迫った『BIG-1物語 王貞治』の4本。
80年代は『人間の約束』と『嵐が丘』の僅か2本。
90年代は長きにわたる停滞、主にテレビでのドキュメンタリー番組を手掛ける。
2000年代は1本だけ『鏡の女たち』が遺作になってしまった。なぜ『鏡の女たち』以降映画を撮らなくなったのか、撮れなかったのか、様々な要因が重なっただろうことは容易に察しが付く。だが映画作家吉田喜重への評価は国内では2000年代以降から再評価されつつありながらも残念ながら『鏡の女たち』に続く映画を撮ることが果たさなかった。
テレビで手掛けたドキュメンタリー番組で小津安二郎に迫る『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界 』で小津作品を真正面から捉える、その後著作『小津安二郎の反映画』として結実する。
言うまでもなく吉田喜重の恩師である小津安二郎の映画のスタイルは異様に低いローアングルから日本家屋を捉え日本の家庭劇に拘泥した作風で知られる、家庭を舞台にした映画以外にもギャング映画などのいわゆるジャンル映画を手掛けている。
小津安二郎の映画は欧米のレトロスペクティブを通じて作家として発見され晩年のフランソワ・トリュフォーやポール・シュレイダーも賞賛するなど、小津神話に貢献。
こうした小津の映画スタイル、俳優を駒のように監督の指示通りに演技を行う俳優を好みいかなる逸脱も許容しない父権的振舞い小津の映画に反発したのが吉田喜重であり大島渚そして今村昌平だった。
吉田喜重の松竹時代を代表すると同時に初期の名作と謳われる『秋津温泉』は松竹らしからぬ映画だろう。映画『秋津温泉』の出だしは典型的な松竹映画の体裁で始まる、しかし映画が進行すると客側の期待を悉く裏切る。その裏切りは客の想定内、松竹映画の枠組みの映画が進行すると思わせる体裁を装うこと。確信犯的意図。遺作『鏡の女たち』にまで繋がる戦争と女の視点が早くも表象されている。
奇しくも『鏡の女たち』の約3年前に大島渚が遺作となってしまった『御法度』を発表している。
日本の場合、松竹映画は大資本会社であり日本のヌーヴェルヴァーグの作家たちは専属監督として松竹映画に雇用されている。
フランスにおいて映画の作家たちによる批評行為を背景とした運動体であり芸術運動ヌーヴェルヴァーグと根本的に意味と社会的背景が違う。類似する点はいくつか上げられる、吉田喜重と大島渚がともに映画理論と批評の書き手であったこと現在置かれている自国映画に対して徹底的な批判意識があるということ。日本とフランスのヌーヴェルヴァーグの違いも指摘しておくとフランスは批評家たちが現状への苛立ちを募らせ、批評の先に自分で映画を撮り不当に貶められた映画作家を再定義/再評価を与えたこと。撮影所内での若手の台頭が日本の松竹ヌーヴェルヴァーグと呼称される動き、フランスはカイエ・デュ・シネマが母体となった動き。撮影所内と外、内部と外部という差異が明確に横たわる。
相違点を認識する前に松竹ヌーヴェルヴァーグと言われた作家たちはその松竹から独立する動きを見せる。
大島渚は創造社、吉田喜重は現代映画社、篠田正浩は表現社。この時代の日本映画は映画会社の独占的事業形態、自社が経営する映画館を所有し自社作品しか映画館では上映できない仕組みとなっいていた。映画監督を規定する要素に師事する監督の下でつくとやがては監督になれる縦社会、そうした柵を打破する思想と行動を持った松竹内のヌーヴェルヴァーグと呼称された吉田喜重と大島渚はその後独立していくことになる。
吉田喜重の作品を取り上げ論じる、まずは映画『秋津温泉』
前述したように典型な松竹映画とは些か趣を異にする映画である。まず第一に挙げていくべきは映画『秋津温泉』は成瀬巳喜男のティストが感じられること、成瀬巳喜男監督の名作『浮雲』は今では余り顧みられることがない日本映画50年代期の名作。戦時中のインドネシアでの経験を戦後も引きずり込んで男女の関係性の中に植民地支配の問題、その中で宿命的に出会わざるを得なかった男女の戦後社会における戦時の傷が悲劇的に描かれる。映画『浮雲』で出演していたのが岡田茉莉子だった。
映画『秋津温泉』はメロドラマのフォーマットに即しながらメロドラマ性を表象し脱構築的な企てを図る。
『浮雲』のようなある種の拘泥のわかりやすさは『秋津温泉』での男女間の拘泥のありようは複雑で安易な理解を拒否している。
温泉宿内のカメラワークはどこか情緒を排している、メロドラマ性をシニカルな態度で監督は挑みながらメロドラマに反メロドラマを内在化させた映画だと言える。
戦後17年の関係性に拘束された男女の拘泥の反復過程、それはメロドラマというよりも一種の悲喜劇と置換されるべきかもしれない。
であるからこそ相反する要素の混在を『秋津温泉』のなかに描いた吉田喜重は松竹映画のある種の総括を企図したかもしれない。
吉田喜重の7冊の著作や短編映画など触れなけならないことは多数あった。
とは言えはここで吉田喜重の追悼として拙文ではあるが結びとさせていただきたい。
付記
ここで論じきれなかった作品は機会を改めて論じることいたします。
参考文献
女優 岡田茉莉子 文藝春秋
四方田犬彦 編著 吉田喜重の全体像 作品社
2023年01月20日
信仰の寛容、闇を光に
人は生の苦しみの呪力を解放するために神を求める。新年に私は光など感じもせず年末年始を淡々と緩慢に過ごす、いや言葉を言い換えるとやり過ごす。
そのような感覚で迎えた2023年。新年最初に観た映画が『重力の光』
映画『重力の光』はまさそのような意志がある。
ドキュメンタリー/フィクションの二構成を輻輳しながら最後の晩餐をホームレス経験者が舞台で演ずることに。
生活困窮者への支援活動を行うNPO法人抱樸の代表である奥田知志が牧師を務める福岡県北九州の東八幡キリスト教会には社会から排除された人々が集う。世の健全性の社会では生きられなかった人々がこの教会は寛容の精神で受け入れる。
人々の証言インタビューの映像がモノクロームに設定、本編全体はカラーだ。
意識的な設定だろうか、ドキュメンタリー/フィクションの輻輳への伏線構成なのと理解できる。
監督の石原海は本作のホームページにて「無意識に祈りを求めていたからなのかもしれない」とメッセージを寄せている。
多くの日本人は日本列島人と言い換える。日本列島人は無意識的に無宗教と言われているもいる。
石原海監督自身は信仰心があるのかわからない、けれども無宗教/無信仰であったとしても教会が寛容に纏う場所であること監督は協会に惹かれ得も言われぬようにして居場所になったしまったのだろう。
個々の教会へ集う人々へのインタビュー映像のあとにインタビュアーたちが天使になる映像が挿入される。
デヴィッド・リンチ映画やデレク・ジャーマン映画のワンシーンを惹起を仕向けるようにできている。
いやそれは邪推かもしれないが。
デレク・ジャーマンの映画『ザ・ガーデン』は桃源郷のような映像表現で構成された映画、イギリスの強烈な作家主義を感じさせる。
映画のタイトルにもの表れているようにデレク・ジャーマンは庭を愛した映像作家でもあった。映像創作と同じくらい草花を育てることに熱意を注入。
ロンドンから遠く離れたダンジェネス、そこは原子力発電所が聳える。そのダンジェネスに小屋を建てガーデニングに没入。荒涼/殺伐とした近未来SFでお馴染みの既視感溢れる場所でデレク・ジャーマンは人知れず黙々と草花を育ていた。イギリスの風土が生んだ感性なのだろうか?
舞台デザイナーでもあったデレク・ジャーマンは庭を一種の舞台のように見立てていたかもしれない。
片やデヴィッド・リンチ監督になると自然へのぞっとするような恐怖を感じさせる描写、映画『ブルーベルベット』の片田舎町の風景。田舎町の恐怖と相まって『ブルーベルベット』の自然は安心を与えない。エドワード・ホッパーの絵画作品を映像に置き換えた風景が広がる『ブルーベルベット』は何もない片田舎の狂気の潜勢力を抉る。その抉りはエグイ、自然へのぞっとする畏怖が貫かれている。迂回する信仰らしきものが偏在している。
田舎に住み続けてることの言葉にできない相矛盾する意識のありようを映像化したともいえる。
石原がリンチに影響を受けているか定かではない。しかしリンチ的な映像を時折感じさせこの作家石原海の感性を刻印した映像から推察した。
間違いかもしれないが、奇妙な浮遊する感覚、過分な華美で過敏なる人々の戯れ。
デレク・ジャーマンの映像作に見られる桃源郷のような質感と『重力の光』には相通じるものを感じる。
映画タイトル『重力の光』はトマス・ピンチョンのポストモダン文学の名作『重力の虹』を思わせるものだ。
意図したのかどうか、邪推の域でしかないのだが映画内で描かれる教会へ集う人々の在り方/生き方は現実原則から大きく逸脱している。
逸脱を受け入れる教会はポストモダン的とも言えなくもなく、映画『重力の光』そのものがポストモダンを包含していると解釈した。
映画『重力の光』の天使の描写はデレク・ジャーマン『ザ・ガーデン』に於ける天使の描写に近い。
デレク・ジャーマン、デヴィッド・リンチそして石原海と続く浮遊的な映像を系譜と位置付けることができるかもしれない。
自作以降の石原海の作品に期待し続けたい。
日本で数少なく次の作品が期待できる作家と言えるだろう。
昨今の日本映画はもはや作家主義は機能不全に陥っている。誰が現代の作家なのか、過去の作家しかいない現状で若き才能は生まれるのだろうか。類似するミニシアター映画を退ける意志を持つものこそ現代日本に必要な映画作家。石原海はそのような意味で現代の映画作家だと言うことができる。
本作『重力の光』は無信仰が常態化した日本に鋭く突きつける信仰する側からの無信仰へのプロテストなのだ。
青山真治の弟子の映画を見逃した夜に記す。
そのような感覚で迎えた2023年。新年最初に観た映画が『重力の光』
映画『重力の光』はまさそのような意志がある。
ドキュメンタリー/フィクションの二構成を輻輳しながら最後の晩餐をホームレス経験者が舞台で演ずることに。
生活困窮者への支援活動を行うNPO法人抱樸の代表である奥田知志が牧師を務める福岡県北九州の東八幡キリスト教会には社会から排除された人々が集う。世の健全性の社会では生きられなかった人々がこの教会は寛容の精神で受け入れる。
人々の証言インタビューの映像がモノクロームに設定、本編全体はカラーだ。
意識的な設定だろうか、ドキュメンタリー/フィクションの輻輳への伏線構成なのと理解できる。
監督の石原海は本作のホームページにて「無意識に祈りを求めていたからなのかもしれない」とメッセージを寄せている。
多くの日本人は日本列島人と言い換える。日本列島人は無意識的に無宗教と言われているもいる。
石原海監督自身は信仰心があるのかわからない、けれども無宗教/無信仰であったとしても教会が寛容に纏う場所であること監督は協会に惹かれ得も言われぬようにして居場所になったしまったのだろう。
個々の教会へ集う人々へのインタビュー映像のあとにインタビュアーたちが天使になる映像が挿入される。
デヴィッド・リンチ映画やデレク・ジャーマン映画のワンシーンを惹起を仕向けるようにできている。
いやそれは邪推かもしれないが。
デレク・ジャーマンの映画『ザ・ガーデン』は桃源郷のような映像表現で構成された映画、イギリスの強烈な作家主義を感じさせる。
映画のタイトルにもの表れているようにデレク・ジャーマンは庭を愛した映像作家でもあった。映像創作と同じくらい草花を育てることに熱意を注入。
ロンドンから遠く離れたダンジェネス、そこは原子力発電所が聳える。そのダンジェネスに小屋を建てガーデニングに没入。荒涼/殺伐とした近未来SFでお馴染みの既視感溢れる場所でデレク・ジャーマンは人知れず黙々と草花を育ていた。イギリスの風土が生んだ感性なのだろうか?
舞台デザイナーでもあったデレク・ジャーマンは庭を一種の舞台のように見立てていたかもしれない。
片やデヴィッド・リンチ監督になると自然へのぞっとするような恐怖を感じさせる描写、映画『ブルーベルベット』の片田舎町の風景。田舎町の恐怖と相まって『ブルーベルベット』の自然は安心を与えない。エドワード・ホッパーの絵画作品を映像に置き換えた風景が広がる『ブルーベルベット』は何もない片田舎の狂気の潜勢力を抉る。その抉りはエグイ、自然へのぞっとする畏怖が貫かれている。迂回する信仰らしきものが偏在している。
田舎に住み続けてることの言葉にできない相矛盾する意識のありようを映像化したともいえる。
石原がリンチに影響を受けているか定かではない。しかしリンチ的な映像を時折感じさせこの作家石原海の感性を刻印した映像から推察した。
間違いかもしれないが、奇妙な浮遊する感覚、過分な華美で過敏なる人々の戯れ。
デレク・ジャーマンの映像作に見られる桃源郷のような質感と『重力の光』には相通じるものを感じる。
映画タイトル『重力の光』はトマス・ピンチョンのポストモダン文学の名作『重力の虹』を思わせるものだ。
意図したのかどうか、邪推の域でしかないのだが映画内で描かれる教会へ集う人々の在り方/生き方は現実原則から大きく逸脱している。
逸脱を受け入れる教会はポストモダン的とも言えなくもなく、映画『重力の光』そのものがポストモダンを包含していると解釈した。
映画『重力の光』の天使の描写はデレク・ジャーマン『ザ・ガーデン』に於ける天使の描写に近い。
デレク・ジャーマン、デヴィッド・リンチそして石原海と続く浮遊的な映像を系譜と位置付けることができるかもしれない。
自作以降の石原海の作品に期待し続けたい。
日本で数少なく次の作品が期待できる作家と言えるだろう。
昨今の日本映画はもはや作家主義は機能不全に陥っている。誰が現代の作家なのか、過去の作家しかいない現状で若き才能は生まれるのだろうか。類似するミニシアター映画を退ける意志を持つものこそ現代日本に必要な映画作家。石原海はそのような意味で現代の映画作家だと言うことができる。
本作『重力の光』は無信仰が常態化した日本に鋭く突きつける信仰する側からの無信仰へのプロテストなのだ。
青山真治の弟子の映画を見逃した夜に記す。
Posted by NaohikoIsikawa at
23:30
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2023年01月03日
ドキュメンタリー映画の構成について
そもそもドキュメンタリー映画は大きいって二つの製作スタイルがある。伝記/評伝スタイル。もうひとつは事件や事故を扱う現場主義。前者は後世に足跡のある偉人もしくは功績を称えて製作されるのでとも知れば賛辞一辺倒な作りになる傾向がある、後者に至っては社会の真実に迫ろうとする余りに力点がずれていると感じる時がある。
ドキュメンタリー映画が持つ意識的な映像の不可抗力。数多くの人々はドキュメンタリーだから映された映像は全て真実だと穿き違えての理解がなされている。その点を踏まえて考えてみると近年のドキュメンタリー映画は二極化が進行中と言える。
初見での理解を拒むフレデリック・ワイズマン監督の映画が一定の客にアピールし安易な作りのドキュメンタリー映画が無批判に作られる。
高度情報化社会の加速的進展、ドキュメンタリー映画の二極化はその高度情報化社会の影響を無意識的な影響を受けている/受けなければならないジャンルだ。
ドキュメンタリー映画はイギリスの映像作家ジョン・グリアソンが初めて用いた概念。ロバート・フラハティ監督の映画『モアナ』を説明するときに用いられた。20年代の映画表現で新たなジャンルが次々と登場しつつあった旅行映画、ニュース映画、時事映画。写真映画に記録映画。
映像に記録する認識が生まれた1920年代がドキュメンタリー映画誕生の時代だったということだ。
本題ドキュメンタリー映画『マリークワント』はイギリスのファッション・デザイナーであるマリー・クワントの足跡を時系列で迫る。本編冒頭にマリークワント本人の発言が字幕で表示される「ココ・シャネルには嫌われていた 理由はよく分かっている!」視覚的インパクトを狙ったものだ、映画本編にココ・シャネルとマリークワントの前記発言を補足する場面がないので映画の冒頭にみのファンサービスの類でしかない。
本作も偉大なる偉人の足跡を後世に伝える意図を持って製作された映画なので座席に座れば安心して映画を観ることができる安心安全ドキュメンタリー映画に入る。時系列的に深めてマリー・クワントを掘り下げるわけではなく、表層で終わってしまった残念な映画だ。そうは言ってもそれなりに時間を割いて50年代~60年代のマリークワントに迫ろうとしているのでその部分は評価できる。
50年代にマリークワントは誰よりも早くミニスカートを着用していた、60年代の文化革命の主役に躍り出るデザイナーの胸躍る逸話。
映画は50年代のイギリスとマリークワントを深堀しない文化的抑圧が窮屈で当時の若者世代の鬱屈した感情はなんとなく理解できる。
この鬱屈が60年代イギリスの文化革命の起爆剤になる、50年代アメリカでも50年代イギリスと同じく保守的な価値観が浸透し普遍原理に。
恋愛や男女間の関係性、服装、あらゆる点で当時のイギリスは保守的な枠組みで若い人々を押し込めようとしていた。
保守的で頑固で強固なイギリスの社会、特に男性権威主義が一般的だった50年代イギリスで果敢に闘いを挑み60年代に主役に踊り出る。
スウィンギングロンドン、イギリスは60年代文化の流行の先端を直走る発信地であった。ファッションデザイナーとしてマリークワントはファッションをカジュアルとセクシーに重きを置いたスタイルと定着させそのスタイルがスウィンギングロンドンの総合的なデザイナーを決定づける。
若さへの自覚的意識から若い人間らしい服をデザインする。今では当然になった価値観もマリークワントの功績抜きあってのこと。
チェルシーのマリークワント自身の小さなショップが文化/流行の震源地になる、これは後のインディー/オルタナの時代のメジャーとインディーの二項対立に於けるヘゲモニー闘争の予見的文化状況。
当時のイギリスに於いて逆説的に開放的なミニスカートが登場したもの閉塞的文化状況あってのこと、人間は余りにも理不尽な圧迫を受け続けると鬱屈した意志の解放するために自己表現に身を託し鬱屈を晴らすべく徹底的な貫徹した意識が形成されるのかもしれない。
マリークワントは今のSDGs的な価値観を先取りしており、結果的にSDGs自体の旧態依然とした価値観しか持ち合わせていないことも後半部分で描かれる。
80年代以降は省略して50年代と60年代にフォーカスを絞れば良いドキュメンタリー映画になっただろう。
文化革命を起こした歴史的自分を題材にしているわりに妙な収まりのよいコンパクトな構成。
批判的な箇所もあるがスウィンギングロンドン時代を代表するファッションデザイナー、マリークワントを知るためには打ってつけのドキュメンタリー映画。
ココ・シャネルとマリー・クワントはどのような会話を交わしたのだろう、そこが一番気なった。
そして本作後半部分でちらりと登場するヴィヴィアンウエストウッドが急逝した、ご冥福をお祈り申し上げます。
スウィンギングロンドン時代のファッションデザイナー、マリークワントがパンク時代のファッションデザイナーのヴィヴィアンウエストウッドを評価していた逸話は興味深い、この逸話の掘り下げたドキュメンタリー映画を別に作るべきではないだろうか?
文化革命が台頭する時期にファッションは重要な役割を与えられる、スウィンギングロンドンとロンドンパンクを繋ぐ見えない伏線。
音楽面ではザ・フ―/ピート・タウンゼントがロンドンパンク登場を誰よりも早く評価したと言われている、モッズとパンクを繋ぐ線路はよく知られている。けれどもスウィンギングロンドン全体とロンドンパンクがどう繋がりどう繋がらなかったのか、論究/検証する価値は大いにあると思われる。
本作をドキュメンタリー映画の構造で考えた場合、構成に若干の詰め甘さも気になった。
ドキュメンタリー映画が持つ意識的な映像の不可抗力。数多くの人々はドキュメンタリーだから映された映像は全て真実だと穿き違えての理解がなされている。その点を踏まえて考えてみると近年のドキュメンタリー映画は二極化が進行中と言える。
初見での理解を拒むフレデリック・ワイズマン監督の映画が一定の客にアピールし安易な作りのドキュメンタリー映画が無批判に作られる。
高度情報化社会の加速的進展、ドキュメンタリー映画の二極化はその高度情報化社会の影響を無意識的な影響を受けている/受けなければならないジャンルだ。
ドキュメンタリー映画はイギリスの映像作家ジョン・グリアソンが初めて用いた概念。ロバート・フラハティ監督の映画『モアナ』を説明するときに用いられた。20年代の映画表現で新たなジャンルが次々と登場しつつあった旅行映画、ニュース映画、時事映画。写真映画に記録映画。
映像に記録する認識が生まれた1920年代がドキュメンタリー映画誕生の時代だったということだ。
本題ドキュメンタリー映画『マリークワント』はイギリスのファッション・デザイナーであるマリー・クワントの足跡を時系列で迫る。本編冒頭にマリークワント本人の発言が字幕で表示される「ココ・シャネルには嫌われていた 理由はよく分かっている!」視覚的インパクトを狙ったものだ、映画本編にココ・シャネルとマリークワントの前記発言を補足する場面がないので映画の冒頭にみのファンサービスの類でしかない。
本作も偉大なる偉人の足跡を後世に伝える意図を持って製作された映画なので座席に座れば安心して映画を観ることができる安心安全ドキュメンタリー映画に入る。時系列的に深めてマリー・クワントを掘り下げるわけではなく、表層で終わってしまった残念な映画だ。そうは言ってもそれなりに時間を割いて50年代~60年代のマリークワントに迫ろうとしているのでその部分は評価できる。
50年代にマリークワントは誰よりも早くミニスカートを着用していた、60年代の文化革命の主役に躍り出るデザイナーの胸躍る逸話。
映画は50年代のイギリスとマリークワントを深堀しない文化的抑圧が窮屈で当時の若者世代の鬱屈した感情はなんとなく理解できる。
この鬱屈が60年代イギリスの文化革命の起爆剤になる、50年代アメリカでも50年代イギリスと同じく保守的な価値観が浸透し普遍原理に。
恋愛や男女間の関係性、服装、あらゆる点で当時のイギリスは保守的な枠組みで若い人々を押し込めようとしていた。
保守的で頑固で強固なイギリスの社会、特に男性権威主義が一般的だった50年代イギリスで果敢に闘いを挑み60年代に主役に踊り出る。
スウィンギングロンドン、イギリスは60年代文化の流行の先端を直走る発信地であった。ファッションデザイナーとしてマリークワントはファッションをカジュアルとセクシーに重きを置いたスタイルと定着させそのスタイルがスウィンギングロンドンの総合的なデザイナーを決定づける。
若さへの自覚的意識から若い人間らしい服をデザインする。今では当然になった価値観もマリークワントの功績抜きあってのこと。
チェルシーのマリークワント自身の小さなショップが文化/流行の震源地になる、これは後のインディー/オルタナの時代のメジャーとインディーの二項対立に於けるヘゲモニー闘争の予見的文化状況。
当時のイギリスに於いて逆説的に開放的なミニスカートが登場したもの閉塞的文化状況あってのこと、人間は余りにも理不尽な圧迫を受け続けると鬱屈した意志の解放するために自己表現に身を託し鬱屈を晴らすべく徹底的な貫徹した意識が形成されるのかもしれない。
マリークワントは今のSDGs的な価値観を先取りしており、結果的にSDGs自体の旧態依然とした価値観しか持ち合わせていないことも後半部分で描かれる。
80年代以降は省略して50年代と60年代にフォーカスを絞れば良いドキュメンタリー映画になっただろう。
文化革命を起こした歴史的自分を題材にしているわりに妙な収まりのよいコンパクトな構成。
批判的な箇所もあるがスウィンギングロンドン時代を代表するファッションデザイナー、マリークワントを知るためには打ってつけのドキュメンタリー映画。
ココ・シャネルとマリー・クワントはどのような会話を交わしたのだろう、そこが一番気なった。
そして本作後半部分でちらりと登場するヴィヴィアンウエストウッドが急逝した、ご冥福をお祈り申し上げます。
スウィンギングロンドン時代のファッションデザイナー、マリークワントがパンク時代のファッションデザイナーのヴィヴィアンウエストウッドを評価していた逸話は興味深い、この逸話の掘り下げたドキュメンタリー映画を別に作るべきではないだろうか?
文化革命が台頭する時期にファッションは重要な役割を与えられる、スウィンギングロンドンとロンドンパンクを繋ぐ見えない伏線。
音楽面ではザ・フ―/ピート・タウンゼントがロンドンパンク登場を誰よりも早く評価したと言われている、モッズとパンクを繋ぐ線路はよく知られている。けれどもスウィンギングロンドン全体とロンドンパンクがどう繋がりどう繋がらなかったのか、論究/検証する価値は大いにあると思われる。
本作をドキュメンタリー映画の構造で考えた場合、構成に若干の詰め甘さも気になった。
Posted by NaohikoIsikawa at
23:26
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2022年12月30日
日本映画寡黙主義
日本映画『宮松と松下』は邦画系中間派と指摘できる映画作品、映画は如何に可能か。本作品を観て直後に思う。
2022年は偉大なる映画作家たちが相次いで亡くなった年だ。青山真治、ゴダール、吉田喜重。
そうした映画作家たちの死は蓮實重彦氏がかくも晦渋に指摘している「映画崩壊前夜」に類しうる出来事として記憶されなければならない。
作家の死を克明に認識した上で日本映画『宮松と山下』だ。
90年代の日本映画、撮影所システムの崩壊。冷戦構造の崩壊、家庭用ビデオ/レンタルビデオと衛星放送の普及によって映画の社会的位置づけが変容したのが90年代の日本映画の状況だ。
物語の終焉と言われた冷戦構造の崩壊で物語の普遍的意味が見失われ、大枠で辛うじて80年代までは掴み切れた日本の映画の力。
力、ここでは物語と言い換える。90年代の日本映画では物語/力の意味が特定の映画作家たちによって意図的に捨象されてしまう。
その試み自体が90年代の日本映画の方向であった、その方向性は間違いではない。寧ろ正しかった。
その正しさが現在の日本映画の環境を歪み形にしてしまった。歪みそれは大作映画とインディペンデント映画の間における中間映画の不在。
90年代の日本映画の映画作家たちを特徴づけるスタイルがある。
北野武は乾いた暴力性と郊外の無機質。
黒沢清はもっと徹底して郊外の無機質を無菌室のように撮る。
黒沢清の助監督だった青山真治は無菌室に囲われた都市に住む人々の荒涼な心情を描く。
様々な問題を包含した作家河瀨直美、初期こそは映像美を切り撮るスタイルの作風だった。
これら作家たちの映画はセリフが少なく郊外が舞台になり。喪失と暴力を大小の変異工夫しながら描いていく。
郊外舞台の設定した邦画は多くの客が支持するような映画でもない当たり前の事実。
日本全体で見れば90年代ミニシアター隆盛があったものの日本の作家的な映画には注目の度合いが低かった部分も見受けられる。
90年代の日本映画の作家たちが郊外社会にフォーカスした時点で日本映画の将来性まで停滞することになってしまったと言えなくもない。
では90年代の日本映画の名作は何かと問われたら間違いなく『CURE』だろう。
猟奇殺人事件を背景に日本の90年代の日本の閉塞感を抉るように描く。アメリカではジョナサン・デミ監督『羊たちの沈黙』にデヴィッド・リンチ監督イ『ツインピークス』とデヴィッド・フィンチャー監督『セブン』などの猟奇サイコスリラーが一世を風靡した。
亜流的映画も数多出現した。黒沢清監督『CURE』は日本側からに応答的意味合いもある、米国の猟奇的サイコスリラーを日本に置換できることを実証。薄暗い画面構成、停滞している最中の日本の暗喩的画面。
黒沢清の影響抜き現在に至るまでの日本映画のいわゆる作家主義は語れない。
ようやく話を『宮松と山下』に戻す、予告編を見る限り90年代の日本のミニシアター系邦画の延長線上に位置づけれらる作り体裁。
予告編に淡々とした別バージョン6分のものが存在する、露悪的な振舞のような気もする。
映画は人物背景説明抜きで始まる、エキストラ専門の役者宮松はロープウェイの作業員をしながらエキストラでは食えないのいわゆるダブルワークで生活を営んでいるらしい。映画は印象的ショットが散見される、しかしそのショットは明確に方向性を見失った映画本編の映像スタイルには不適切だった、なぜならば『宮松と山下』の構成が短編映画の寄せ集めのような作りになっていて主人公の謎も解明されず、ジャンル映画を回避する作りになっているのは映画的免疫を持つ人間ならばたちどころに理解できる。
本作『宮松と山下』には映画を観る側へ与える行為の不穏さ無自覚な態度が無意識的なものとして振舞われていることこそが問題とするべきかもしれないのだ。黒沢清『アカルイミライ』の如く本作はジャンル性ではない別のポジショニングで映画らしく映画を回避している、90年代前半までの北野武映画を彷彿させるショットが配置されていても、映画全体の弛緩または緩慢された空気感は一向にシリアス性を帯びた笑いを外した深夜放送のコントのような演出のように思えてくる。それも飛び切りシュールなもの。
日本映画のアカルイミライはあるのだろうかと問いかけたい、そんな内容。
主人公の記憶喪失という設定も首をかしげてしまう、近年の日本映画で記憶喪失の主人公を扱う内容が多い、本作でも記憶喪失自体が映画に意味を与えているのか、例えばかつての同僚が宮松に対してお前山下だろと言う台詞。ならば宮松、この名前は誰が名付けたのか、自分自身で名付けたのか。名称と記憶を巡る問題はキチンと整理されぬままに映画が進行、説明を省くことと整理を省くことを混同している。
ラストに至るまで想定内と思えた映画。どうせならもっと不穏なラストシーンになれば評価も変わったと思うのだが。
来年以降も日本映画には到底期待できない、一部の監督たちを除いては。
名もなき人物を演じる宮松はエキストラを反復することによって自己を発見したのだろうか。映画での彼の態度は今の日本映画の閉塞状況を表象しているのではないか。映画の表象が終焉しそうな時期に敢えて表象概念を使うことの古典的な婉曲作法の誹りを逃れないのは必至。
香川照之が劇中で演じるエキストラ宮松がビアガーデンでのシーンで酔っ払いを演じる、あのシーンは素の香川照之ではないかと一瞬思う。
観て観るべき映画ではない、本作『宮松と山下』は日本映画の停滞を印象付けた映画だということ。蓮實重彦「映画崩壊前夜」を補強する映画と最後に添えておく。
参考文献
青山真治 『シネマ21』 朝日新聞出版 2010年
黒沢清 『黒沢清の映画術』 新潮者 2006年
蓮實重彦 『映画崩壊前夜』 青土社 2008年
蓮實重彦 『ショットとは何か』 講談社 2021年
2022年は偉大なる映画作家たちが相次いで亡くなった年だ。青山真治、ゴダール、吉田喜重。
そうした映画作家たちの死は蓮實重彦氏がかくも晦渋に指摘している「映画崩壊前夜」に類しうる出来事として記憶されなければならない。
作家の死を克明に認識した上で日本映画『宮松と山下』だ。
90年代の日本映画、撮影所システムの崩壊。冷戦構造の崩壊、家庭用ビデオ/レンタルビデオと衛星放送の普及によって映画の社会的位置づけが変容したのが90年代の日本映画の状況だ。
物語の終焉と言われた冷戦構造の崩壊で物語の普遍的意味が見失われ、大枠で辛うじて80年代までは掴み切れた日本の映画の力。
力、ここでは物語と言い換える。90年代の日本映画では物語/力の意味が特定の映画作家たちによって意図的に捨象されてしまう。
その試み自体が90年代の日本映画の方向であった、その方向性は間違いではない。寧ろ正しかった。
その正しさが現在の日本映画の環境を歪み形にしてしまった。歪みそれは大作映画とインディペンデント映画の間における中間映画の不在。
90年代の日本映画の映画作家たちを特徴づけるスタイルがある。
北野武は乾いた暴力性と郊外の無機質。
黒沢清はもっと徹底して郊外の無機質を無菌室のように撮る。
黒沢清の助監督だった青山真治は無菌室に囲われた都市に住む人々の荒涼な心情を描く。
様々な問題を包含した作家河瀨直美、初期こそは映像美を切り撮るスタイルの作風だった。
これら作家たちの映画はセリフが少なく郊外が舞台になり。喪失と暴力を大小の変異工夫しながら描いていく。
郊外舞台の設定した邦画は多くの客が支持するような映画でもない当たり前の事実。
日本全体で見れば90年代ミニシアター隆盛があったものの日本の作家的な映画には注目の度合いが低かった部分も見受けられる。
90年代の日本映画の作家たちが郊外社会にフォーカスした時点で日本映画の将来性まで停滞することになってしまったと言えなくもない。
では90年代の日本映画の名作は何かと問われたら間違いなく『CURE』だろう。
猟奇殺人事件を背景に日本の90年代の日本の閉塞感を抉るように描く。アメリカではジョナサン・デミ監督『羊たちの沈黙』にデヴィッド・リンチ監督イ『ツインピークス』とデヴィッド・フィンチャー監督『セブン』などの猟奇サイコスリラーが一世を風靡した。
亜流的映画も数多出現した。黒沢清監督『CURE』は日本側からに応答的意味合いもある、米国の猟奇的サイコスリラーを日本に置換できることを実証。薄暗い画面構成、停滞している最中の日本の暗喩的画面。
黒沢清の影響抜き現在に至るまでの日本映画のいわゆる作家主義は語れない。
ようやく話を『宮松と山下』に戻す、予告編を見る限り90年代の日本のミニシアター系邦画の延長線上に位置づけれらる作り体裁。
予告編に淡々とした別バージョン6分のものが存在する、露悪的な振舞のような気もする。
映画は人物背景説明抜きで始まる、エキストラ専門の役者宮松はロープウェイの作業員をしながらエキストラでは食えないのいわゆるダブルワークで生活を営んでいるらしい。映画は印象的ショットが散見される、しかしそのショットは明確に方向性を見失った映画本編の映像スタイルには不適切だった、なぜならば『宮松と山下』の構成が短編映画の寄せ集めのような作りになっていて主人公の謎も解明されず、ジャンル映画を回避する作りになっているのは映画的免疫を持つ人間ならばたちどころに理解できる。
本作『宮松と山下』には映画を観る側へ与える行為の不穏さ無自覚な態度が無意識的なものとして振舞われていることこそが問題とするべきかもしれないのだ。黒沢清『アカルイミライ』の如く本作はジャンル性ではない別のポジショニングで映画らしく映画を回避している、90年代前半までの北野武映画を彷彿させるショットが配置されていても、映画全体の弛緩または緩慢された空気感は一向にシリアス性を帯びた笑いを外した深夜放送のコントのような演出のように思えてくる。それも飛び切りシュールなもの。
日本映画のアカルイミライはあるのだろうかと問いかけたい、そんな内容。
主人公の記憶喪失という設定も首をかしげてしまう、近年の日本映画で記憶喪失の主人公を扱う内容が多い、本作でも記憶喪失自体が映画に意味を与えているのか、例えばかつての同僚が宮松に対してお前山下だろと言う台詞。ならば宮松、この名前は誰が名付けたのか、自分自身で名付けたのか。名称と記憶を巡る問題はキチンと整理されぬままに映画が進行、説明を省くことと整理を省くことを混同している。
ラストに至るまで想定内と思えた映画。どうせならもっと不穏なラストシーンになれば評価も変わったと思うのだが。
来年以降も日本映画には到底期待できない、一部の監督たちを除いては。
名もなき人物を演じる宮松はエキストラを反復することによって自己を発見したのだろうか。映画での彼の態度は今の日本映画の閉塞状況を表象しているのではないか。映画の表象が終焉しそうな時期に敢えて表象概念を使うことの古典的な婉曲作法の誹りを逃れないのは必至。
香川照之が劇中で演じるエキストラ宮松がビアガーデンでのシーンで酔っ払いを演じる、あのシーンは素の香川照之ではないかと一瞬思う。
観て観るべき映画ではない、本作『宮松と山下』は日本映画の停滞を印象付けた映画だということ。蓮實重彦「映画崩壊前夜」を補強する映画と最後に添えておく。
参考文献
青山真治 『シネマ21』 朝日新聞出版 2010年
黒沢清 『黒沢清の映画術』 新潮者 2006年
蓮實重彦 『映画崩壊前夜』 青土社 2008年
蓮實重彦 『ショットとは何か』 講談社 2021年