昨年2020年から今年2021年にかけて刻々とコロナが経済や社会に深刻な影響を与え、混迷が加速化、現代の取り巻く社会状況はポストモダン的と言える現状が覆う改めてポストモダンの前の時代モダニズム=Modernismを考え直してみる。モダニズムと呼称される様々な文化表現がある、絵画、音楽そして建築。各ジャンルのなかにジャズ、文学、演劇に絵画。モダニズムという表現がある、モダンニズムそれは近代以降の知の在り方に関わる。ポストモダンはモダニズムを超克するものと考えられている。
モダニズム、辞書にはこのように書かれている「20世紀以降に起こった芸術運動、特に第一次世界大戦以後(戦間期)の1920年代を中心にした前衛的な動向を指す。従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求」
続いてポストモダンの辞書での意味はどうだろう「近代から脱却することを目標に掲げ、20世紀中頃から後半にかけて、哲学・芸術・建築・評論などの分野で流行した広範な思想運動。広義には、近代のあとに続くと考えられている時代とその傾向を指す言葉である。狭義的には脱近代主義とも言われる」
近代と脱近代の超克、モダニズムとポストモダンの二つの概念は西洋近代の矛盾が内包されながら生まれた概念と指摘できる。
様々な映画祭で高評価を得、映画サイトのロッテン・トマトでも高評価を獲得、映画『コロンバス』は現代社会のなかに行き場を失ったような場所に建てられその価値を見出した女性を主役に添え、モダニズム建築=Modern Architectureのある町を舞台にした映画。町の名前は映画のタイトルにもなっているコロンバス、アメリカのオハイオ州にある。アメリカ中西部屈指の世界都市である。
オハイオ州は世界的に著名な黒人作家ト二・モリソン(Toni Morrison)の生誕の地でもある。にも拘らずワタクシはその存在を映画『コロンバス』を観るまで認識していなかった。監督はココナダと言う奇妙な名前、小津安二郎監督を支えた脚本家の野田高悟に因んでつけれらたというペンネーム。ココナダ監督は小津安二郎とロベール・ブレッソンについてのドキュメンタリー映画を既に撮っている、『コロンバス』では郷愁的色合いは小津安二郎的だし、画面の奥行はブレッソン的だ。若い白人女性とアジア系中年男性をめぐる建築を介在させたロマンティックなようで非対称性を徹底した映画とも言える、この映画には黒人が出てこない、脇役でも出ない、隅にも見かけない。
SDGsやブラック・ライヴズ・マターなど循環型社会、人種の公正さを求める動きがある中で、本作『コロンバス』の黒人の不在ぶりは不可思議な印象を与える。アジア系中年男性と低階層の白人女性、本来のアメリカ映画、メジャー本道のハリウッド映画ならまずはありえない設定になるだろう。映画に映し出されるコロンバスの町並みは環境音楽が似合う街並み、昨今の英米圏で日本の環境音楽が再評価されていることも無縁ではないと思われる。モダニズム建築が建ち並ぶ街並みで展開される小津安二郎&ブレッソン風ドラマは、コロンバスという街だからこそ可能な演出。
映像のカットにモダニズム建築が映し出され、建築と人を優しく包み込みようにカメラはゆったりと空間的余裕をもって捉える。建築に恋焦がれているかのようなヒロインの建築を語る素振り、建築家を父に持つヒロインの相手役。建築が異なる階層、人種を結び付けた。大声で平等性を担保するような主題にしなくとも、自然体に人を描くことができる。カメラの画面の色合いにしろ質感にしろ、近年のアメリカのインディペンデント系映画のなかでも抜き出た手腕。過剰さを排するとはアメリカのインディペンデント系映画の暗黙の了解事項でスティーブン・ソダーバーグ監督の『セックスと嘘とビデオテープ』以来の表現の形式化を経てマンネリ化も無きにしも非ず、その中にはもちろん名作、秀作はあるのだが。
地方都市で生活することの閉塞感、いやけして嫌ではない、現状に不満ながらなんとなくこの地方で生きざるを得ない。まったりな閉塞感と形容するべきか。先に上げた映画『セックスと嘘とビデオテープ』は今観直すと様々な意味に於いてアクチュアリティな内容を包含している。映画『コロンバス』と同じく地方都市の閉塞状況が描かれている、一言で『セックスと嘘とビデオテープ』はコミュニティの外部性を見出した人間の内的不毛さが跳ね返る不条理、その状況が生まれてしまう地方都市と言うことになる。
映画『コロンバス』のほうが救いがある、ヒロインは最終的周りの良き理解者に助けられ生まれ育った町から旅立つ決意する。映画『コロンバス』には黒人が出ない代わりに作家トニ・モリソンが描いてきた作品にも通じるティストを忍ばせたかもしれない、推測にしかすぎないが。
現代建築家レム・コールハースは建築と都市のつながりを問われ以下のように答えている。「建築と都市が常にひとつながりで語られることには、非常に驚きます。なぜなら、このふたつはひどく異なっているだけでなく、実際には正反対のものだからです。」この発言は映画『ココロンバス』で描かれる街にも該当。建築と都市が異なっているからこそ、街の住民は建築の重要性に見向きもせず、外からやってくる人だけがコロンバスのモダニズム建築を観賞する。ヒロインの宙ぶらりんのような状態をも的確に捉えている。現代の世界の各地の都市でも見受けられる状況なのかもしれない、予習的にこの映画を観るべきだ、ここに描かれている建築と都市の異なる棲み分けが、人間の関係すらも閉鎖的にしていく、人間の顔をした建築と都市の在り方は観た側に委ねられている。
参考文献
今村仁司/三島憲一/川崎修 編著『岩波社会思想事典』 岩波書店 2008年
ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『コールハースは語る』 筑摩書房 2008年
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 ちくま学芸文庫 1999年
2019年10月号ユリイカ 特集トニ・モリソン
磯崎新『建築における「日本的なもの」』 新潮社 2003年
ル・コルビュジエ/ポール・オトレ『ムンダネウム』 筑摩書房 2009年
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