ロバート・ダウニー・シニアは俳優のロバート・ダウニーJrの父親として知られているが、アンダーグラウンド映画の作りてであったことは一部でのみ知られている。世間的にロバート・ダウニーと聞くと映画『アイアンマン』を真っ先に上げる人が多数犇めくだろう。今のロバート・ダウニーJrの基礎を形成したのも映画監督である父ロバート・ダウニーの影響を抜きに語ることはできない。息子ロバート・ダウニーJrは個性的に役どころからメインに躍り出るとは些かある種のバッドドリームなのかもしれないが。対照的な父と息子、このロバート・ダウニー親子の関係に似ている親子がいる。
ニューシネマの時代に放った映画『アメリカを斬る』の監督ハスケル・ウェクスラーと長男の関係を描いたドキュメンタリー映画『マイ・シネマトグラファー』は息子マーク・ウェクスラーが監督している。ロバート・ダウニーJrも父を題材にドキュメンタリー映画を製作している、『"Sr.":ロバート・ダウニー・シニアの生涯』だ。
ロバート・ダウニー・シニア彼は元々は作家志望の軍人だった。
兵役期間の合間を縫って小説を書き結局それら小説は未発表のままになっている。創作する意志を継続させ次に向かっていったのが映画だ。
60年代のカウンターカルチャーの流れに乗って映画作りを志す。
彼の初期の重要な映画は日本で観る機会がこれまでなかった、アメリカ映画研究の書籍などではその重要性を指摘している記述があり、重要作品が観れないとは歯痒いと長年思ってきた。
1961年映画編集者のフレッド・フォン・ベルネヴィッツの協力を経て低予算16mmフィルム映画の自身の脚本で映画を撮る。
短編Balls Bluff(日本未公開作)は南北戦争に於ける兵士を題材に戦争のファンタジックな不条理劇でアンダーグラウンドシーンの支持を獲得。
ロバート・ダウニー・シニアの一連の初期作はジム・ジャームッシュ、ポール・トーマス・アンダーソンらに強く影響を与えており、日本未公開のまま。このまま放置してはならない!
しかし昨年唐突に事態は好転する。映画『パトニー・スウォープ』原題Putney Swopeが日本国内で劇場公開された。
劇場公開の予習として何度も予告編を観た。私個人60年代のアメリカのいわゆるニューシネマを一時期集中的に観た、並行して同時期のアンダーグラウンド映画もいくつか観た。実際の映画よりも資料での文字情報のほうが多いのだが。
アンダーグラウンド映画の代表的監督ジョナス・メカスがいる。
『パトニー・スウォープ』の劇場用パンフレットでロバート・ダウニー・シニアとアンダーグラウンド映画の作り手ジョナス・メカスとの対話の記事が再掲載されている。初出はムーヴィー・ジャーナル誌1969年7月10日号
ジョナス・メカスは対話で以下のような発言をしている
「狂気を描くためには作家はオーガナイズされていなくてはならなくてはいけない。
いずれにしても、見る者の視点からするとあなたはコメディーの中で最も難しいフォームを選んだと思います。『パトニー・スウォープ』の観客は全く何の手引きも与えられていないのです。腐敗を描くシーンと純粋を描くシーンが混じりあっているのです。正気と狂気とがです。ある意味で主題は語られずに突きつけられているだけ。そして多分、とても上手に突きつけられていると思います。広告業界に興味のある人は実地研修ツアーをこの映画で体験できるのではないでしょうか」
多少皮肉交じりであるとは言え本質を付いている評だ、映画批評家としても鋭い審美眼を持っていたジョナス・メカスならではの指摘だろう。
実地研修ツアーとは言えて妙だ。広告業界への水先案内人のような映画だと言いたかったのだろう。
『パトニー・スウォープ』は映画冒頭異様な空撮から始まる、高層ビルにヘリが着地し矢継ぎ早に重役会議シーンへ以降。
重役会議とは言え真面目なのか不真面目なのか見当もつかない人物ばかり、この重役会議で次の会社代表=最高経営責任者CEOを決めることになる。何故ならば本会議の冒頭で現最高経営責任者CEOがプレゼン中に急逝。
そこで投票が行われることに。誰もが票を入れないと思われた人物に評が集中してしまい、想定外の出来事が起きてしまうパトニー・スウォープ選出という事態に。奇抜極まりない広告を打ち出した会社は好調。だが内部は順風満帆とは行かなかった。
白人の監督が黒人を起用して当時のアメリカの広告代理店の宣伝の在り方を媒介にして情況への映画的アンサー、時代的波と映画製作の相乗効果で作り上げられた。
映画内で挿入される架空のCMは現実とのギッャプ著しい、しかしながらそのCMの謳い文句、現在の2023年のCM/広告と照らし合わせてもCM/広告がもつ特有の美辞麗句を過渡にデフォルメに成功している。であるからこそ今観ても視覚的強烈が残るのだ。
劇中モノクロが本編で劇中のCMがカラーという設定、CMに色があることが却ってCMの内容への陳腐さ露骨さを浮き立たせる。
モノクロ本編、ダークなグレーゾーンを綱渡りする広告企業の不穏な動きをモノクロ設定にすることによって企業体の不可解なあり方への違和の表象されるとみなすべき。大統領が動き圧力をかける下りは後の日本の文学作品でも見られる権力の描き方の類型を図らずも提示していることの些かの驚きを禁じ得ない。具体的固有名を挙げると日本の80年代文学が該当する『羊をめぐる冒険』『吉里吉里人』『裏声で歌え君が代』etc
劇中、陰謀と策謀が通奏/並走される辺り今日的主題論とさえ言えてしまうのもあくまでも現在地の知見からのもである謂いを逃れない。
ジョナス・メカスが指摘したように『パトニー・スウォープ』は広告業界の正気と狂気を描いている、けれども二項対立として描くのではなく曖昧で境界線もなく実は正気の延長線上に狂気あると仄めかしている構造だと言えなくもない。正気と狂気、合わせ鏡は自己崩壊を招いて自壊する運命を辿らざるを得ない。
ラストの自壊していく様はまるで当時のアメリカの自壊のような描写。
映画全体に酷く緩慢さとある種の緊張を孕んだ矛盾する空気感を内包しつつ映画はラフな映像は積み重ねられていく。
冒頭のヘリから矢継ぎ早に移行した会議シーンでは緊迫感溢れる演出だったが映画が進行するにつれ緩くなり中盤の社内オフィスでの手持ちカメラでの移動ショット、移動の限定が映画『パトニー・スウォープ』全体は非=移動映画とさえ言える。移動がなされていたとしても移動的な行動を観る側に訴えない。
秀逸なるショットが断片的にしか存在しないにもかかわらずショット不在を嘆いてみても始まらない。いやラスト付近のショットは見事だ。
インディペンデント映画のラフなリズム感に如何にして身体を乗せるのか、劇中の企業の名称がTruth and Soulが映画全体を揺さぶるリズムだった。
本作はロバート・ダウニー・シニア自身の広告関連の仕事の経験が生かされていると言われている。
陰謀と企業の倫理性、策謀とカリスマ統治、レイシスト、差別への抵抗それらが混在し一体となった『パトニー・スウォープ』は今観るべき1969年のアンダーグラウンド映画。2023年に於いても強烈な些かも錆びつかない映画であろう。
参考文献
『パトニー・スウォープ』劇場パンフレット